南無阿弥陀仏について学ぼう

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5月
30

南無阿弥陀仏と法話

みどり | 南無阿弥陀仏・雑談

親鸞会に縁があり、南無阿弥陀仏について書いていますが、南無阿弥陀仏の御名号を本尊にしている親鸞会の法話に参詣しました。
法話というのは、仏法に関する話のことで、せめて法事の時だけでも法話を聞く機会があるとよいですね。

本来、法事というのは、忙しい忙しいと働く私たちが、せめて親の命日だけでも、仕事の手を休めて、肉親の死を思いおこして無常を観じつつ、経典に説かれている、釈尊の教えに耳を傾けようとする日なんですね。
ですから本来の法事には必ず、説法が伴わねばならないのです。
なので、読経、食事、飲酒、そして世間話で法事が終わってしまうのでは、要である説法が抜けた法事になってしまうのですね。

さて、最初に書きましたように南無阿弥陀仏の心について話がなされる法話を聴きに
いったのですが、その中で、水よく石をうがつ【雨だれの説法】について聞かせて
もらったので、ここで紹介したいと思います。

昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行をやっていたのですが、3年たっても一向に魂の解決の目処がつかなかったそうです。そこで、『オレは駄目な人間なのかも知れない』、と先生においとまを願い出たそうです。師の僧は、真面目な明詮だけに、残念に思ったそうですが、余りにも決意が固いので、慰留をあきらめそれを許したのだとか。

ですがやはり長いこと苦楽を共にしてきた師や法友と別れるのは辛く、明詮は泣きながら寺を出た・・・。その時、にわかに大雨が降ってきたので、止むなく山門の下に腰をおろし、雨が上がるのを待っていたのだそうです。その時、何気なく山門の屋根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気づく。

『こんな堅い石に、どうしてこんな穴があいたのだろうか。』・・・それはまぎれもなく雨滴の仕業ではないかと。あのやわらかい水滴が、こんな堅い石に穴を!何という驚くべき事実であろう。

そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にすらも恥ずべき横着者だ。仏法の重さを全然わかっていなかった。後生の一大事を軽くみていたのだ。例え水のように弱い心しかない自分でも、根気よく求めていけば、必ず魂の解決ができるに違いない・・・。奮然とその場を立った明詮は水からうけた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進し、後に音羽の明詮といわれる大徳になったのだそうです。何事にも、真剣に続けるということ程、大切なことはないのだと思いました。

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5月
13

南無阿弥陀仏・六字の名号

みどり | 南無阿弥陀仏とは

南無阿弥陀仏について、お釈迦さまはこう教えておられます。

【十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう】

『大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほど沢山の仏方が、異口同音に阿弥陀仏の作られた「南無阿弥陀仏」の名号の、想像できない大功徳を褒め称えておられるのだ』

すでに阿弥陀仏は『南無阿弥陀仏』を完成させていることがわかります。
なんといっても、どこかの誰かが言ったことではなく、お釈迦さまのお言葉ですからね。親鸞聖人は、弥陀が完成なされた、この『六字の名号』の大功徳を、『功徳の大宝海』とか『本願の大智海』とも『正信偈』に讃嘆され、蓮如上人は平易に、こう詳解されています。

【「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大になること、更にその極まりなきものなり。(御文章)】
『「南無阿弥陀仏」といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとはだれも思えないだろう。だが、この六字の中には私達が最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである』と書かれているのです。

これは前回にも紹介した部分ですが、南無阿弥陀仏というのは本当に大宇宙の諸仏が絶讃する名号ですよね。

南無阿弥陀仏は全ての人を絶対の幸福にする力があります。
人はなぜ生きるのか、何の為に生きているのか、なぜ苦しくとも生きていかねばならないのか、南無阿弥陀仏を頂くとその答えがハッキリするのです。

さて、南無阿弥陀仏とは少し話が変わりますが「和顔愛語」という仏教の言葉を知っていますか?、私はこの和顔愛語という言葉が大好きです。笑顔でいることは人を幸せにし、自分の幸せにもつながるという意味だと私は思っています。笑顔は見返りを求めてするものではないですよね。自分の笑顔で人を幸せにする・・・こんな素敵なことはないと思います。

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4月
14

南無阿弥陀仏という名号

みどり | 南無阿弥陀仏とは

南無阿弥陀仏とはなにか?
蓮如上人は『御文章』に分かりやすく教示されています。

『「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり』(御文章)

【南無阿弥陀仏】の名号はたった六つの文字だから、その南無阿弥陀仏という言葉にそんなに凄い力があるとは誰も思えないでしょう。
しかしこの南無阿弥陀仏という六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸福にする絶大な働きがあり、その広大さは、上をみれば果てしなく、底をみれば深さがしれない、まさに天の際限のないようなものである、と懇切丁寧にかかれています。

親鸞聖人も「功徳の大宝海」と、南無阿弥陀仏は宝の海のようなものだと正信偈に言われていますね。

大変な功徳が南無阿弥陀仏の六字にはあるのですが、猫に小判、ブタに真珠といわれるように、我々凡夫(人間)に、南無阿弥陀仏の値を知る智恵が無いので、その凄さが分からないのですね。

お釈迦さま、親鸞聖人、蓮如上人が絶讃する【南無阿弥陀仏】。それには、一体どんな力があるのでしょう。それは、全人類の苦悩の根元である無明の闇(後生暗い心)を一念でぶち破って、絶対の幸福に救う、破闇満願の働きであり、それは不可称不可説不可思議の大功徳なのだと教えられています。

南無阿弥陀仏の意味、南無阿弥陀仏の尊さを知ると、なんだか元気がわいてきます。
生きがいです。

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4月
3

南無阿弥陀仏に関すること

みどり | 南無阿弥陀仏とは, 南無阿弥陀仏・親鸞聖人

今回は浄土真宗の御本尊である「南無阿弥陀仏」について書きたいと思います。

・浄土真宗の正しい御本尊

御本尊とは、『根本に尊ぶべきもの』で、時や所、人によって変わるというものではなく、宗教、特に仏教では、最も重要な意味を持つものです。
では、浄土真宗の正しい御本尊は何でしょう。親鸞聖人は生涯、御名号・南無阿弥陀仏のみを御本尊となされていました。
それは、多くのお聖教にも明記されている歴史的事実なんですね。そして聖人は私たちにも、南無阿弥陀仏を本尊としなさい、と教え勧められています。親鸞聖人は南無阿弥陀仏のみを本尊とされていたということです。

・『浄土真宗』の本尊と『他流』本尊の違いについて。

この親鸞聖人の教示を、蓮如上人も分かりやすく教えられています。

『他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり』(御一代記聞書)と書かれています。

『当流』とは親鸞聖人の教えです。
、南無阿弥陀仏の『浄土真宗』のことですが、『他流』は真宗以外の教えのことなんですね。他流では、名号より絵像がいい、絵像より木像がありがたいと言っているそうですが、南無阿弥陀仏の浄土真宗では、木像や絵像よりも、御名号を本尊とするのが最もよいとおっしゃっているのです。この両聖人の教導に従って、浄土真宗では、専ら南無阿弥陀仏の御名号を本尊としているのです。

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3月
24

南無阿弥陀仏・正信偈

みどり | 南無阿弥陀仏・正信偈

南無阿弥陀仏というと親鸞聖人を思いうかべる人も少なくないかもしれませんね。

その親鸞聖人の書かれた『正信偈』を御存じですか?

正信偈の最初の二行は

帰命無量寿如来
南無不可思議光

という言葉で書き起こされています。

ここに出ています、無量寿如来も不可思議光も、ともに阿弥陀如来のことなのです。

阿弥陀如来が法蔵菩薩と名乗っておられた修行時代に、師の世自在王佛のみもとにあって、
諸佛の浄土の建立のいわれや、浄土に住むものたちの善悪を観察し、
それらに勝る浄土を創ろうとこの上なく勝れた願をたて、世にも稀な大誓願をおこしました。

その大誓願は、五劫という長い長い間考えられ、「弥陀の四十八願」と
いわれています。

阿弥陀仏の光明(お力)は、どんな極悪人でも救うという量り無きもので、大宇宙にあまねく行き渡り、妨げるものもなく、比べるものもなく、
清らかで、喜びに満ち、智慧を与えるお働きがあり、絶えることもない。
人間の思慮を越え、月や日の光をも超えた明るい心にしてくださる。

以上正信偈の一部でした。
この正信偈は南無阿弥陀仏の心を開いて私たちに教えてくだされているものと
教えてもらいました。

正信偈の「正信」とは正しい信心のことです。信心とは心で何かを信じることなのですが、神や仏を信じるだけが信心ではなく、心で何かを頼りにして、支えにしているのは、皆『信心』なんですね。『何も信じていない』という人も、そんな自分の信念を支えにしていると言えるでしょう。人は何かを信じていなければ生きてはいけないはずです。生きる=信じること、なのですね。

私達は信じていたものに裏切られた時、苦しんだリ悲しんだりしますよね。本当に幸せになりたければ、決して裏切られない正しい『信心』を持ちなさいよということを、親鸞聖人が明らかにされているのが『正信偈』なのです。

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3月
3

南無阿弥陀仏・大宇宙の功徳の結晶

みどり | 南無阿弥陀仏とは

南無阿弥陀仏とはどういった始まりだったのでしょう?

大宇宙の功徳の結晶というのは御存じでしょうか?いくら病気を治す原理が宇宙に存在していても、それを発見し、それに則って医師が薬を作らなければ、病気を患っている患者を救うことはできませんよね。

いわば【南無阿弥陀仏】は、“万人の苦悩を抜き取り永遠に幸福にする”という真理を体現した阿弥陀仏が創造した妙薬に喩えられているようです。はるかなる過去から汚れきって、微塵のまことの心もなく、苦から離れ切れない我々を憐れみ、救わずはおかぬ熱い思いで奮い立った弥陀が、気の遠くなるくらいの長期間に、誠心誠意、全身全霊の修行の末に、大宇宙の功徳(善)を結晶されたのが、【南無阿弥陀仏】の名号だと教えられています。

『教行信証』には、その経緯(いわゆる名号のいわれ)を次のように詳述されています。
ちょっと専門的ですが・・・

『一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり』(教行信証)

すべての人間は、はるかな遠い昔から今日に至るまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、たわごとのみで、まことの心というのはまったくない。かかる苦しみ悩む一切の人々を阿弥陀仏は悲しみ憐れみ、何とか助けようと兆載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳である南無阿弥陀仏を完成されたのです。

南無阿弥陀仏というのは単なる文字でもなければ、符号でもないんですね。

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2月
13

南無阿弥陀仏・念仏を称えたら

みどり | 南無阿弥陀仏とは

南無阿弥陀仏・・・誰でも一度は聞いたことがあるでしょう。

【念仏を称えたら誰でも極楽へ往ける、と教えたのが親鸞聖人】という、世に蔓延している迷妄があります。

真宗の道俗ですらそういった考えになるのですから、まして一般大衆は皆、それに間違いないと思い込んでいるのが現状ではないでしょうか。
その有力な根拠となっているのが、実は『歎異抄』であったそうです。全章にわたって『念仏』の二文字が強調される『歎異抄』ですが、とりわけ有名なのは第二章、すなわち、『親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり』の一文です。

この『ただ念仏して』を、『ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて』と間違った理解して、『聖人は、ただ南無阿弥陀仏と念仏を称えて救われたのだ』と誰でも信じ込んでしまったのです。『歎異抄』は縁が浅い人が読むと誤解する、と歎異抄を封印されたのは蓮如上人でした。
その『御文章』の至るところに、『いくら念仏称えていても助からぬ』と記されています。
そのいくつかを紹介しましょう。

【御文章より】
『名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり』(一帖十五通)

『ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず』(三帖三通)

『まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、
ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば
皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり』(三帖五通)

このような証文というのは、多数に上ります。『ただ念仏さえ称えていれば皆助かる』というのは、断じて親鸞聖人の教えではないということを覚えていていただきたいと思います。

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1月
29

南無阿弥陀仏とは

みどり | 南無阿弥陀仏とは

南無阿弥陀仏と称えているのを聞いたことはありますか?おじいちゃんやおばあちゃんと住んでいた方などではよく聞いていた念仏でしょうね。私もおばあちゃんが生前に、毎日南無阿弥陀仏と称えていたことをよく覚えています。

親鸞聖人、蓮如上人のご教示に従って、『南無阿弥陀仏』の六字の御名号というものが、いかなるものかを解説していこうと思います。

『老少善悪をえらばず、絶対の幸福に救う』と誓われたのが、『阿弥陀仏の本願』です。
ですが、どんな立派な『願』であっても、それに伴う『行』がなければ一切成就しないものです。

「願」と「行」の関係について、
ある道楽息子と老いた母親との話を通して書いてみたいと思います。

あるところに道楽息子がおりました。
いつも不孝ばかりを続けています。
ところがある日、道楽息子はこういいました。
、
『おっ母、おっ母の仕事をしている姿を見ると、
目をショボショボさせて鼻汁まで流して元気がない。
どうだ京都見物でもしてこようではないか』

おっ母は非常に喜んで、

『お前はいつからそんなに孝行者になったのかい。
長生きはするものだ。ではワシを連れていってくれるか。』

『連れていかないでどうするか、
先の短いおっ母を働かせてばかりいては、気の毒だ。
オレも一緒に行くぞ。』

と息子が言えば、母親はシクシクと嬉し泣きしている。

『じゃそれでお前は、路銀(ろぎん、交通費のこと)はどれだけ持っているのかい』
と尋ねると、道楽息子は狼狽して、

『とんでもない!オレは連れて行ってはやれるが、
路銀宿銭は一切おっ母が出すんだ。』

すると怒ったおっ母は、寝転んでいる息子の頭に
持っていた土瓶を投げつけると、

『これは路銀(ろぎん)じゃない“土瓶(どびん)”だ』

と道楽息子が言ったという笑い話があります。。

おっ母を連れていってやりたいという『願』はあっても、
路銀がなければ京都見物はさせられない。
この息子のような『阿弥陀さま』では我々は救われないのです。

この路銀をつくるのに兆載永劫の苦行がなされたのであります。
願いが遠大であるゆえに、その願いを成就しなければ、
する行もまた遠大にならざるをえません。

『すべての人を、必ず絶対の幸福に救う』という誓いを実現するために、
阿弥陀仏は『南無阿弥陀仏』という六字の名号を作られたのです。

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