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12月
10

無上宝珠の南無阿弥陀仏

みどり | 未分類

 無上宝珠、功徳の大宝海といわれ、どんな悪機をも助ける力を有する南无阿弥陀仏の名号は阿弥陀仏の四十八願の中の第十七番目に約束せられてあるから、その十七願成就して出来上がったものである。
 即ち十七願には
「設え、我れ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏悉く咨嗟して、我が名を称せずば、正覚を取らじ」
と誓われ、『成就文』には、この願の成就したことを、
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを、讃嘆したまう」
と説かれている。
 これによって明らかな通り法蔵菩薩は十方の世界の恒沙無量の諸仏達が等しく讃嘆せずにおれない威神功徳不可思議な力を持つ名号六字を、成就して見せることを確約し、遂にその約束を果して名号を成就せられたのだ。
 威神功徳不可思議というのは、一切衆生を十八願に約束した通りに、大満足、大安心、日本晴れの信楽の身に救済する力用を具えている名号であることを示している。十方の諸仏が名号六字の妙徳をほめたたえるということは名号が単なる符丁ではなく、私達を本当に救う力を持っているということに外ならない。故に十七願を名号成就の願というのである。

 この尊高無比の名号、尊号嘉号を善導大師は
「南无というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり」
と教えて南无とはタノム機の方であり阿弥陀仏とは助くる法の方である。タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。

 善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国仏教の全盛時代であった。当時、有名な天台、嘉祥、浄影等の諸大師が競って『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。所謂、浄影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。然るに、この下々品の人間は無善造悪で業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。

 南无は帰命、帰命とは身命をなげ出して仏にお願いすることだから南无阿弥陀仏ということは阿弥陀仏さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。唯願無行だ。だから十念の称名念仏は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。今はただ遠生の結縁になるだけである。にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。別時意趣とは無著菩薩の書かれた『摂大乗論』の中に、仏の説法に四意趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。

 これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法の仕方である。諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと言えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。
 しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近ずかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。だから南无阿弥陀仏だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮ぶ縁になるということである。しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。

 この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなくそれ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、これらの迷妄誤解を撃破する為に「今、我が延ぶるところ、仏の願意に叶いませば夢中に霊相を示し給え」と日々阿弥陀経を誦すること三遍念仏三万遍相続され十方諸仏に証明を乞われたという。かくて夜毎に化仏来りて一々仏の指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。

 この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀仏の目的ではないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修業が出来ようか、仏の慈悲は苦あるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。しかもその南无阿弥陀仏の名号は諸師の云われるような唯願無行では絶対にない。

 何故なら、南无というは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち是その行なり。如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中に、ととのえてあるから必ず往生が出来るのだ。願行具足といっても凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。
 仏の願行を機無、円成するが故に、仏の世界に行かれるのだ。だから遠生の結縁では絶対にない。
 帰命の一念に必得往生出来るのだ。」
 大心海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。

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