14
南無阿弥陀仏が成就するまで
みどり | 未分類 平生業成、現生不退、不体失往生させずば正覚を取らないという無上殊勝の願、超世不共の大願については今までにほぼ明らかにして来たが、どんなに立派な願いが建てられても、それにともなう行がなければ一切は成就しないわけである。
或る道楽息子が老いた母親に向かって
「おっ母、おっ母の仕事をしている姿を見ると、眼をショボショボさせて鼻汁流して元気がない。もう先も永いことなかろうと思うが、どうだ京都の本願寺へでも参って、ついでに京都見物でもしてこようではないか」と言う。
母親は非常に喜んで
「お前は何時からそんなに孝行者になったのかい。長命はしたいものだ。ではワシを連れていってくれるか」
「連れていかいでどうするか、先の短いおっ母を働かせてばかりいては気の毒だ、オレも一緒に行くぞ」
と息子がいえば最早、母親はシクシク嬉し泣きしている。
「じゃそれではお前、路銀はどれだけ持っているのかい」
と尋ねると極道息子は狼狽して
「とんでもない、オレは連れて行ってはやるが路銀宿銭は一切、おっ母が出すんだ」といったので怒った母親、ねころんでいる息子の頭に持っていた土瓶を投げつけると、息子は
「これは路銀じゃない土瓶だ」
と言ったという笑話があるが、連れていってやりたいという願いはあっても路銀がなければ京都見物はさせられない。この息子のような阿弥陀さんでは我々は救われない。この路銀をつくるのに兆載永劫の苦行がなされたのである。願いが遠大である故に、その願いを成就せんとする行も又遠大にならざるを得ないのは理の当然と言わなければならない。
五劫の思惟によって建立された超世無上の願を満足させる為に兆載永劫の法蔵菩薩の御修行がなされたゆえんである。極悪非道、罪悪深重、難化の三機、難治の三病、逆謗の屍である我々、一息つがざれば無間のドン底に沈むことは必至の我々を無間の苦患を除くだけではなく現世に於ては、正定聚不退、晴れて大満足の明るい身に救いとり未来は報土往生、弥陀同体にする為には並大抵の行では出来ることではない。
仏教の諸経典の説相を総合すると、凡夫から仏になる為には、五十二位の階次を経なければならないと説かれてある。五十二位の階次とは、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚をいう。これを菩薩の五十二位という。仏さまは最高位の妙覚位に登りつめた方々だから仏々平等だが菩薩さまは修行中の方々だから平等ということは出来ずまだほんの駆け出しの無名の菩薩もあれば観音、勢至、弥勒、文殊、普賢、地蔵といった高位の菩薩、仏さまとすれすれの偉い菩薩もいられるわけである。しかし菩薩は最高位の妙覚(成仏)に至るには三大阿僧祇劫の修行を要すると説かれており十地の中の初地(下から四十一段目)に至るまでに第一大阿僧祇劫、初地から第七地に進むまでに第二大阿僧祇劫、第八地から第十地に至るまでに第三阿僧祇劫を経て等覚、妙覚となるのだと教えられている。阿僧祇劫とは億兆よりも数十桁高い一桁の名であるから大変な長期間をいう。
古来、初地(四十一位)にまで登ったといわれる方は龍樹と無著の二菩薩のみであって、その外には一人もいない。中国の天台の南嶽慧思禅師が漸く六根清浄位、即ち十信位天台の智者大師がその下位の五品弟子位、即ち、信前に至ったと自ら語っているが十信からではあと十住、十行、十回向の三十段を経て初めて十地であるから如何に難行であり、成仏することは大変なことだということが判るであろう。
けだし、我々が釈尊やその弟子達が短期に仏道を成ぜられたとか、釈尊に会って直ちに阿羅漢となったとかあるのは、皆この一生にして出来たことではない。いずれも過去世久遠において仏道を成ぜられたものの化現か、又過去世に於て、早きは三生、おそきは六十劫、又は早きは四生、おそきは百劫というような長期に亘る修行を続けたものの結果である。恰も、少し木にふれたばかりで柿の実が落ちたということは、すでに長い間、日光に照育され熟し切っていた為であるのと同じ道理である。
かくて、五劫の思惟と兆載永劫の法蔵菩薩の御修行によって我々を救済する能力を有する名号六字が成就したのである。名号とは南无阿弥陀仏の六字のことである。このことを聖人は『教行信証』信巻に
「一切の羣生海、無始より已来乃至、今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心なく虚仮、諂偽にして真実の心なし。是を以って如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して不可思議兆載永劫に於て菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修一念一刹那も清浄ならざるなく、真心ならざるなし、如来清浄の真心を以って円融、無碍、不可思議、不可称、不可説の至徳を成就したまえり」
と讃嘆なされている通りである。故にこの名号六字には万善万行恒沙の功徳がこもっているから徳本とか本願の嘉号とか徳号とか、無上宝珠とか功徳の大宝海とかいわれ、『御文章』五帖目第十三通には
「それ南无阿弥陀仏ともうす文字は、そのかず、わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること更にそのきわまりなきものなり」
と説かれている如くである。

Discussion