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親鸞会に縁があり、南無阿弥陀仏について書いていますが、南無阿弥陀仏の御名号を本尊にしている親鸞会の法話に参詣しました。
法話というのは、仏法に関する話のことで、せめて法事の時だけでも法話を聞く機会があるとよいですね。
本来、法事というのは、忙しい忙しいと働く私たちが、せめて親の命日だけでも、仕事の手を休めて、肉親の死を思いおこして無常を観じつつ、経典に説かれている、釈尊の教えに耳を傾けようとする日なんですね。
ですから本来の法事には必ず、説法が伴わねばならないのです。
なので、読経、食事、飲酒、そして世間話で法事が終わってしまうのでは、要である説法が抜けた法事になってしまうのですね。
さて、最初に書きましたように南無阿弥陀仏の心について話がなされる法話を聴きに
いったのですが、その中で、水よく石をうがつ【雨だれの説法】について聞かせて
もらったので、ここで紹介したいと思います。
昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行をやっていたのですが、3年たっても一向に魂の解決の目処がつかなかったそうです。そこで、『オレは駄目な人間なのかも知れない』、と先生においとまを願い出たそうです。師の僧は、真面目な明詮だけに、残念に思ったそうですが、余りにも決意が固いので、慰留をあきらめそれを許したのだとか。
ですがやはり長いこと苦楽を共にしてきた師や法友と別れるのは辛く、明詮は泣きながら寺を出た・・・。その時、にわかに大雨が降ってきたので、止むなく山門の下に腰をおろし、雨が上がるのを待っていたのだそうです。その時、何気なく山門の屋根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気づく。
『こんな堅い石に、どうしてこんな穴があいたのだろうか。』・・・それはまぎれもなく雨滴の仕業ではないかと。あのやわらかい水滴が、こんな堅い石に穴を!何という驚くべき事実であろう。
そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にすらも恥ずべき横着者だ。仏法の重さを全然わかっていなかった。後生の一大事を軽くみていたのだ。例え水のように弱い心しかない自分でも、根気よく求めていけば、必ず魂の解決ができるに違いない・・・。奮然とその場を立った明詮は水からうけた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進し、後に音羽の明詮といわれる大徳になったのだそうです。何事にも、真剣に続けるということ程、大切なことはないのだと思いました。

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