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南無阿弥陀仏と称えているのを聞いたことはありますか?おじいちゃんやおばあちゃんと住んでいた方などではよく聞いていた念仏でしょうね。私もおばあちゃんが生前に、毎日南無阿弥陀仏と称えていたことをよく覚えています。
親鸞聖人、蓮如上人のご教示に従って、『南無阿弥陀仏』の六字の御名号というものが、いかなるものかを解説していこうと思います。
『老少善悪をえらばず、絶対の幸福に救う』と誓われたのが、『阿弥陀仏の本願』です。
ですが、どんな立派な『願』であっても、それに伴う『行』がなければ一切成就しないものです。
「願」と「行」の関係について、
ある道楽息子と老いた母親との話を通して書いてみたいと思います。
あるところに道楽息子がおりました。
いつも不孝ばかりを続けています。
ところがある日、道楽息子はこういいました。
、
『おっ母、おっ母の仕事をしている姿を見ると、
目をショボショボさせて鼻汁まで流して元気がない。
どうだ京都見物でもしてこようではないか』
おっ母は非常に喜んで、
『お前はいつからそんなに孝行者になったのかい。
長生きはするものだ。ではワシを連れていってくれるか。』
『連れていかないでどうするか、
先の短いおっ母を働かせてばかりいては、気の毒だ。
オレも一緒に行くぞ。』
と息子が言えば、母親はシクシクと嬉し泣きしている。
『じゃそれでお前は、路銀(ろぎん、交通費のこと)はどれだけ持っているのかい』
と尋ねると、道楽息子は狼狽して、
『とんでもない!オレは連れて行ってはやれるが、
路銀宿銭は一切おっ母が出すんだ。』
すると怒ったおっ母は、寝転んでいる息子の頭に
持っていた土瓶を投げつけると、
『これは路銀(ろぎん)じゃない“土瓶(どびん)”だ』
と道楽息子が言ったという笑い話があります。。
おっ母を連れていってやりたいという『願』はあっても、
路銀がなければ京都見物はさせられない。
この息子のような『阿弥陀さま』では我々は救われないのです。
この路銀をつくるのに兆載永劫の苦行がなされたのであります。
願いが遠大であるゆえに、その願いを成就しなければ、
する行もまた遠大にならざるをえません。
『すべての人を、必ず絶対の幸福に救う』という誓いを実現するために、
阿弥陀仏は『南無阿弥陀仏』という六字の名号を作られたのです。

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