<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
		xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"
>

<channel>
	<title>南無阿弥陀仏について学ぼう</title>
	<atom:link href="http://www.mathactive.com/?feed=rss2" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.mathactive.com</link>
	<description>南無阿弥陀仏について紹介しています</description>
	<lastBuildDate>Fri, 06 Aug 2010 05:19:00 +0000</lastBuildDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=2.8</generator>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
			<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/" />
		<item>
		<title>御本尊は南無阿弥陀仏</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=85</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=85#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 19 Jul 2010 06:40:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=85</guid>
		<description><![CDATA[『正信偈』に「善導独明仏正意」と、親鸞聖人が絶賛される善導大師最大の功績は、古今楷定といわれる「南無阿弥陀仏」の六字の妙釈である。　蓮如上人はこの「六字釈」を大変重視せられ、『御文章』に何カ所も引用されている。例えば五帖目十一通の中には、六字釈とその意味が解説されている。
「善導のいわく、『南無というは帰命、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行』といえり。『南無』という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。
　さて、『阿弥陀仏』という四の字の意は、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなく助けたまえる謂が、即ち阿弥陀仏の四の字のこころなり。されば、南無阿弥陀仏の体を、此の如く心得わけたるを、信心を取るとはいうなり」
　凡夫の我々には、真実を真実と信じられる「まことの心」は微塵もない。五劫の思惟でそれを見抜かれた本師本仏の阿弥陀仏が、信ずる「まことの心」まで用意なされ、「南無」の二字として、南無阿弥陀仏に収められている。
　だから南無阿弥陀仏の六字には、信ずるまことの心（南無）も、助けるまことの力（阿弥陀仏）も成就されており、阿弥陀仏からこの名号を受け取る一念（信心獲得）で、いつ死んでも浄土往生できる身にさせていただけるのである。
　他力の信心といっても、この名号六字の外にはない。
『御文章』に何箇所も書かれてあるとおりだ。
　だからこそ親鸞聖人は、一生涯、南無阿弥陀仏の御名号を本尊となされたのであり、親鸞学徒は、そのとおりさせていただくのである。
　ところが今日の浄土真宗では、御名号を本尊とせられた親鸞聖人の重大な御心はそっちのけにされ、全国の寺院、門徒の仏壇とも、木像・絵像本尊で統一されている。
　それでも最近、西本願寺の御本尊の見解に、多少なりとも変化が見られるようになってきたので紹介しよう。
　それは、主に住職が読む『宗報』に記された「浄土真宗の教章（私の歩む道）」の解説記事である。
「教章」とは、「宗門にご縁のある一人ひとりが、心得ておくべき浄土真宗の要旨」とあり、その中で御本尊を「阿弥陀如来（南無阿弥陀仏）」と規定している理由を、本願寺の教学伝道研究センターの所長が次のように説明していた。
〈それは、本願成就文に「聞其名号」とあるように、私たちが直接出遇っている如来さまは、「南無阿弥陀仏」の名号だからです。そこには、私たちの信心としての帰命の「南無」まで用意してくださって、私のもとに来てくださる如来さまなのです。
　だから、「南無」まで含めて本尊とするのであり、「阿弥陀仏」だけを本尊とするのではありません。私たちの出遇っている如来さまは、「南無」まで用意してくださった「南無阿弥陀仏」なのです〉
　ところが、そこまで書いておきながら、
〈他宗の論理では、木像が最も詳細なお姿で、絵像・名号は簡略化と思われがちですが、当流では全く同等です〉。結局、「木像も絵像も名号も全く同等」という従来と変わらぬ主張で結んでいるのである。
それでは「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは名号』というなり、当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」（御一代記聞書）の蓮如上人のご教示はどうなるのだろう、という気もするが、そう書かざるを得ない歴史的苦悩を垣間見る思いがした。
　しかし本願成就文の「聞其名号」までさかのぼり、『宗報』に〈「南無」まで含めて本尊とするのであり、「阿弥陀仏」だけを本尊とするのではありません〉と書いて、住職に徹底しようとしている姿勢は、今までなかったことであり、ゆっくりとだが、確実に浄土真宗は「親鸞学徒の本道」に向かおうとしている。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>『正信偈』に「善導独明仏正意」と、親鸞聖人が絶賛される善導大師最大の功績は、古今楷定といわれる「南無阿弥陀仏」の六字の妙釈である。　蓮如上人はこの「六字釈」を大変重視せられ、『御文章』に何カ所も引用されている。例えば五帖目十一通の中には、六字釈とその意味が解説されている。</p>
<p>「善導のいわく、『南無というは帰命、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行』といえり。『南無』という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。<br />
　さて、『阿弥陀仏』という四の字の意は、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなく助けたまえる謂が、即ち阿弥陀仏の四の字のこころなり。されば、南無阿弥陀仏の体を、此の如く心得わけたるを、信心を取るとはいうなり」</p>
<p>　凡夫の我々には、真実を真実と信じられる「まことの心」は微塵もない。五劫の思惟でそれを見抜かれた本師本仏の阿弥陀仏が、信ずる「まことの心」まで用意なされ、「南無」の二字として、南無阿弥陀仏に収められている。</p>
<p>　だから南無阿弥陀仏の六字には、信ずるまことの心（南無）も、助けるまことの力（阿弥陀仏）も成就されており、阿弥陀仏からこの名号を受け取る一念（信心獲得）で、いつ死んでも浄土往生できる身にさせていただけるのである。</p>
<p>　他力の信心といっても、この名号六字の外にはない。<br />
『御文章』に何箇所も書かれてあるとおりだ。</p>
<p>　だからこそ親鸞聖人は、一生涯、南無阿弥陀仏の御名号を本尊となされたのであり、親鸞学徒は、そのとおりさせていただくのである。</p>
<p>　ところが今日の浄土真宗では、御名号を本尊とせられた親鸞聖人の重大な御心はそっちのけにされ、全国の寺院、門徒の仏壇とも、木像・絵像本尊で統一されている。<br />
　それでも最近、西本願寺の御本尊の見解に、多少なりとも変化が見られるようになってきたので紹介しよう。</p>
<p>　それは、主に住職が読む『宗報』に記された「浄土真宗の教章（私の歩む道）」の解説記事である。<br />
「教章」とは、「宗門にご縁のある一人ひとりが、心得ておくべき浄土真宗の要旨」とあり、その中で御本尊を「阿弥陀如来（南無阿弥陀仏）」と規定している理由を、本願寺の教学伝道研究センターの所長が次のように説明していた。</p>
<p>〈それは、本願成就文に「聞其名号」とあるように、私たちが直接出遇っている如来さまは、「南無阿弥陀仏」の名号だからです。そこには、私たちの信心としての帰命の「南無」まで用意してくださって、私のもとに来てくださる如来さまなのです。<br />
　だから、「南無」まで含めて本尊とするのであり、「阿弥陀仏」だけを本尊とするのではありません。私たちの出遇っている如来さまは、「南無」まで用意してくださった「南無阿弥陀仏」なのです〉</p>
<p>　ところが、そこまで書いておきながら、<br />
〈他宗の論理では、木像が最も詳細なお姿で、絵像・名号は簡略化と思われがちですが、当流では全く同等です〉。結局、「木像も絵像も名号も全く同等」という従来と変わらぬ主張で結んでいるのである。<br />
それでは「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは名号』というなり、当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」（御一代記聞書）の蓮如上人のご教示はどうなるのだろう、という気もするが、そう書かざるを得ない歴史的苦悩を垣間見る思いがした。</p>
<p>　しかし本願成就文の「聞其名号」までさかのぼり、『宗報』に〈「南無」まで含めて本尊とするのであり、「阿弥陀仏」だけを本尊とするのではありません〉と書いて、住職に徹底しようとしている姿勢は、今までなかったことであり、ゆっくりとだが、確実に浄土真宗は「親鸞学徒の本道」に向かおうとしている。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=85</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=85" />
	</item>
		<item>
		<title>南無阿弥陀仏の六字釈</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=82</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=82#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 12 May 2010 04:23:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=82</guid>
		<description><![CDATA[南無阿弥陀仏を解釈された、善導大師の古今楷定の六字釈といわれる御文が、蓮如上人の『御文章』に、しばしば引用されています。五帖目十一通もその中の一つです。以下、その箇所を引用。
＜他力の信心を取るというも別の事にはあらず。「南無阿弥陀仏」の六の字の意を、よく知りたるをもって信心決定すとはいうなり。そもそも信心の体というは、『経』にいわく、「聞其名号・信心歓喜」といえり。善導のいわく、「南無というは帰命、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行」といえり。「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。
　さて、「阿弥陀仏」という四の字の意は、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなく助けたまえる謂が、即ち阿弥陀仏の四の字のこころなり。されば、南無阿弥陀仏の体を、此の如く心得わけたるを、信心を取るとはいうなり。これ即ち他力の信心をよく心得たる念仏の行者とは申すなり＞
私たちの中には、真実を信ずることのできるまことの心はありませんので、阿弥陀仏が、そのまことの心まで南無阿弥陀仏の「南無」に成就して下されています。
だから南無阿弥陀仏には、信ずるまことの心も、助ける真実の力も、すべて成就・完備されているので、受け取る一つで、いつ死んでも浄土往生させていただける身となります。
それが信心獲得といわれます。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>南無阿弥陀仏を解釈された、善導大師の古今楷定の六字釈といわれる御文が、蓮如上人の『御文章』に、しばしば引用されています。五帖目十一通もその中の一つです。以下、その箇所を引用。</p>
<p>＜他力の信心を取るというも別の事にはあらず。「南無阿弥陀仏」の六の字の意を、よく知りたるをもって信心決定すとはいうなり。そもそも信心の体というは、『経』にいわく、「聞其名号・信心歓喜」といえり。善導のいわく、「南無というは帰命、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行」といえり。「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。<br />
　さて、「阿弥陀仏」という四の字の意は、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなく助けたまえる謂が、即ち阿弥陀仏の四の字のこころなり。されば、南無阿弥陀仏の体を、此の如く心得わけたるを、信心を取るとはいうなり。これ即ち他力の信心をよく心得たる念仏の行者とは申すなり＞</p>
<p>私たちの中には、真実を信ずることのできるまことの心はありませんので、阿弥陀仏が、そのまことの心まで南無阿弥陀仏の「南無」に成就して下されています。</p>
<p>だから南無阿弥陀仏には、信ずるまことの心も、助ける真実の力も、すべて成就・完備されているので、受け取る一つで、いつ死んでも浄土往生させていただける身となります。</p>
<p>それが信心獲得といわれます。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=82</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=82" />
	</item>
		<item>
		<title>南無阿弥陀仏のすがたを心得る</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=80</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=80#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 27 Apr 2010 02:55:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=80</guid>
		<description><![CDATA[他力信心を獲得するとはどういうことなのか。
蓮如上人は『御文章』５帖目５通の「信心獲得章」にこう教えられています。
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」と。
「南無阿弥陀仏にすがたを心得る」とありますので、以下、南無阿弥陀仏について説明しましょう。
『歎異抄をひらく』より
　阿弥陀仏が、「すべての人々を、一人残らず絶対の幸福に救う」という誓いを実現するために作られたのが、「南無阿弥陀仏」である。六字の「名号」と言う。
　いくら病気を治す原理が宇宙に存在しても、それを発見しそれに則って、医師が薬を作らなければ患者を救うことはできない。
　いわば「南無阿弥陀仏」は、〝万人の苦悩を抜き取り永遠に幸福にする〟真理を体現した阿弥陀仏が創造した妙薬に喩えられよう。
　はるかなる過去から汚れ切って、微塵のまことの心もなく、苦から離れきれない我々を憐れみ、救わずはおかぬ熱い思いで奮い立った弥陀が、気の遠くなるような長期間、誠心誠意、全身全霊の修行の末に、大宇宙の功徳（善）を結晶されたのが、「南無阿弥陀仏」の名号なのである。
『教行信証』には、その経緯（名号のいわれ）を次のように詳述されている。
「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり（教行信証）
すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳（南無阿弥陀仏）を完成されたのである。
　阿弥陀仏から私たちが、この名号（南無阿弥陀仏）を一念で賜り、南無阿弥陀仏と私が一体になったのを、
「仏凡一体」（阿弥陀仏の心と、凡夫の心が一つになる）
とか、
「仏智全領」（大宇宙の功徳を丸貰いする）
と教導されている。
　その実体験を聖人は、次のように讃嘆される。
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者（親鸞）の身にみてり」（高僧和讃）
どんな人も、弥陀の本願信ずれば（南無阿弥陀仏を賜れば）、心も言葉も絶えた幸せが、その人（親鸞）の身に満ち溢れるのである。
　不可称・不可説・不可思議の功徳の「南無阿弥陀仏」と我々が一体になったのが、不可称・不可説・不可思議の信心なのである。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>他力信心を獲得するとはどういうことなのか。<br />
蓮如上人は『御文章』５帖目５通の「信心獲得章」にこう教えられています。</p>
<p>「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」と。</p>
<p>「南無阿弥陀仏にすがたを心得る」とありますので、以下、南無阿弥陀仏について説明しましょう。</p>
<p>『歎異抄をひらく』より</p>
<p>　阿弥陀仏が、「すべての人々を、一人残らず絶対の幸福に救う」という誓いを実現するために作られたのが、「南無阿弥陀仏」である。六字の「名号」と言う。<br />
　いくら病気を治す原理が宇宙に存在しても、それを発見しそれに則って、医師が薬を作らなければ患者を救うことはできない。<br />
　いわば「南無阿弥陀仏」は、〝万人の苦悩を抜き取り永遠に幸福にする〟真理を体現した阿弥陀仏が創造した妙薬に喩えられよう。<br />
　はるかなる過去から汚れ切って、微塵のまことの心もなく、苦から離れきれない我々を憐れみ、救わずはおかぬ熱い思いで奮い立った弥陀が、気の遠くなるような長期間、誠心誠意、全身全霊の修行の末に、大宇宙の功徳（善）を結晶されたのが、「南無阿弥陀仏」の名号なのである。<br />
『教行信証』には、その経緯（名号のいわれ）を次のように詳述されている。</p>
<p>「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり（教行信証）</p>
<p>すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳（南無阿弥陀仏）を完成されたのである。</p>
<p>　阿弥陀仏から私たちが、この名号（南無阿弥陀仏）を一念で賜り、南無阿弥陀仏と私が一体になったのを、<br />
「仏凡一体」（阿弥陀仏の心と、凡夫の心が一つになる）<br />
とか、<br />
「仏智全領」（大宇宙の功徳を丸貰いする）<br />
と教導されている。<br />
　その実体験を聖人は、次のように讃嘆される。</p>
<p>「五濁悪世の衆生の<br />
選択本願信ずれば<br />
不可称不可説不可思議の<br />
功徳は行者（親鸞）の身にみてり」（高僧和讃）</p>
<p>どんな人も、弥陀の本願信ずれば（南無阿弥陀仏を賜れば）、心も言葉も絶えた幸せが、その人（親鸞）の身に満ち溢れるのである。</p>
<p>　不可称・不可説・不可思議の功徳の「南無阿弥陀仏」と我々が一体になったのが、不可称・不可説・不可思議の信心なのである。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=80</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=80" />
	</item>
		<item>
		<title>南無阿弥陀仏を称うれば</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=76</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=76#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 08 Feb 2010 09:18:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=76</guid>
		<description><![CDATA[「南無阿弥陀仏を称うれば
　梵王帝釈帰敬す
　諸天善神ことごとく
　よるひるつねにまもるなり」（冥衆護持の益）
「南無阿弥陀仏を称うれば
　十方無量の諸仏は
　百重千重囲繞して
　よろこびまもりたもうなり」（諸仏護念の益）
「金剛堅固の信心の
　定まる時をまちえてぞ
　弥陀の心光摂護して
　永く生死をへだてける」（心光常護の益）
&#8220;このざまで　善果来ぬとは　ふざけてる&#8221;
「ああならん」「こうならん」と不満タラタラの私。
　それ位の善果が来て当然の善人だと自惚れている。
どんな悪報を受けても、文句の言えない、悪性の限りを尽している私が、諸神や菩薩、諸仏、無上仏に護られて一日一日、恵まれすぎていることを感謝せずにおれない。
この「南無阿弥陀仏を称うれば」とは、阿弥陀仏に救い摂られ、念仏を称える人は、の意で、だれでもかれでも南無阿弥陀仏と口でさえ称えておれば、ということではありません。
親鸞会では、名号・信心・念仏の関係を詳しく、分かりやすく教えています。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「南無阿弥陀仏を称うれば<br />
　梵王帝釈帰敬す<br />
　諸天善神ことごとく<br />
　よるひるつねにまもるなり」（冥衆護持の益）</p>
<p>「南無阿弥陀仏を称うれば<br />
　十方無量の諸仏は<br />
　百重千重囲繞して<br />
　よろこびまもりたもうなり」（諸仏護念の益）</p>
<p>「金剛堅固の信心の<br />
　定まる時をまちえてぞ<br />
　弥陀の心光摂護して<br />
　永く生死をへだてける」（心光常護の益）</p>
<p>&#8220;このざまで　善果来ぬとは　ふざけてる&#8221;<br />
「ああならん」「こうならん」と不満タラタラの私。<br />
　それ位の善果が来て当然の善人だと自惚れている。<br />
どんな悪報を受けても、文句の言えない、悪性の限りを尽している私が、諸神や菩薩、諸仏、無上仏に護られて一日一日、恵まれすぎていることを感謝せずにおれない。</p>
<p>この「南無阿弥陀仏を称うれば」とは、阿弥陀仏に救い摂られ、念仏を称える人は、の意で、だれでもかれでも南無阿弥陀仏と口でさえ称えておれば、ということではありません。</p>
<p>親鸞会では、名号・信心・念仏の関係を詳しく、分かりやすく教えています。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=76</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=76" />
	</item>
		<item>
		<title>18願を心得るとは南無阿弥陀仏を心得る</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=74</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=74#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 01 Feb 2010 10:05:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=74</guid>
		<description><![CDATA[信心獲得すというは、
第十八の願を心得るなり。
この願を心得るというは、
南無阿弥陀仏のすがたを
心得るなり。
（蓮如上人『御文章』五帖目五通）
　阿弥陀仏が、「すべての人は極悪人である」と見抜かれた上で「〝南無阿弥陀仏〟を与えて、必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われているお約束が、弥陀の本願（第十八の願）です。
　信心獲得とは、その誓いどおりに現在ただ今、絶対の幸福に救い摂られて「本願まことだった、本当だった」と知らされたことで、それを「第十八の願を心得る」というのです。
　それは、破闇満願の大功徳のある〝南無阿弥陀仏〟の名号を弥陀から丸もらいして、「無上甚深の功徳利益であった」とハッキリしたことですから、「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」とも言われているのです。　
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>信心獲得すというは、<br />
第十八の願を心得るなり。<br />
この願を心得るというは、<br />
南無阿弥陀仏のすがたを<br />
心得るなり。</p>
<p>（蓮如上人『御文章』五帖目五通）</p>
<p>　阿弥陀仏が、「すべての人は極悪人である」と見抜かれた上で「〝南無阿弥陀仏〟を与えて、必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われているお約束が、弥陀の本願（第十八の願）です。<br />
　信心獲得とは、その誓いどおりに現在ただ今、絶対の幸福に救い摂られて「本願まことだった、本当だった」と知らされたことで、それを「第十八の願を心得る」というのです。<br />
　それは、破闇満願の大功徳のある〝南無阿弥陀仏〟の名号を弥陀から丸もらいして、「無上甚深の功徳利益であった」とハッキリしたことですから、「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」とも言われているのです。　</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=74</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=74" />
	</item>
		<item>
		<title>無上宝珠の南無阿弥陀仏</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=71</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=71#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Dec 2009 06:32:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=71</guid>
		<description><![CDATA[　無上宝珠、功徳の大宝海といわれ、どんな悪機をも助ける力を有する南无阿弥陀仏の名号は阿弥陀仏の四十八願の中の第十七番目に約束せられてあるから、その十七願成就して出来上がったものである。
　即ち十七願には
「設え、我れ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏悉く咨嗟して、我が名を称せずば、正覚を取らじ」
と誓われ、『成就文』には、この願の成就したことを、
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを、讃嘆したまう」
と説かれている。
　これによって明らかな通り法蔵菩薩は十方の世界の恒沙無量の諸仏達が等しく讃嘆せずにおれない威神功徳不可思議な力を持つ名号六字を、成就して見せることを確約し、遂にその約束を果して名号を成就せられたのだ。
　威神功徳不可思議というのは、一切衆生を十八願に約束した通りに、大満足、大安心、日本晴れの信楽の身に救済する力用を具えている名号であることを示している。十方の諸仏が名号六字の妙徳をほめたたえるということは名号が単なる符丁ではなく、私達を本当に救う力を持っているということに外ならない。故に十七願を名号成就の願というのである。
　この尊高無比の名号、尊号嘉号を善導大師は
「南无というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり」
と教えて南无とはタノム機の方であり阿弥陀仏とは助くる法の方である。タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。
　善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国仏教の全盛時代であった。当時、有名な天台、嘉祥、浄影等の諸大師が競って『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。所謂、浄影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。然るに、この下々品の人間は無善造悪で業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
　南无は帰命、帰命とは身命をなげ出して仏にお願いすることだから南无阿弥陀仏ということは阿弥陀仏さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。唯願無行だ。だから十念の称名念仏は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。今はただ遠生の結縁になるだけである。にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。別時意趣とは無著菩薩の書かれた『摂大乗論』の中に、仏の説法に四意趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。
　これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法の仕方である。諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと言えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。
　しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近ずかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。だから南无阿弥陀仏だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮ぶ縁になるということである。しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。
　この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなくそれ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、これらの迷妄誤解を撃破する為に「今、我が延ぶるところ、仏の願意に叶いませば夢中に霊相を示し給え」と日々阿弥陀経を誦すること三遍念仏三万遍相続され十方諸仏に証明を乞われたという。かくて夜毎に化仏来りて一々仏の指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。
　この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀仏の目的ではないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修業が出来ようか、仏の慈悲は苦あるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。しかもその南无阿弥陀仏の名号は諸師の云われるような唯願無行では絶対にない。
　何故なら、南无というは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち是その行なり。如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中に、ととのえてあるから必ず往生が出来るのだ。願行具足といっても凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。
　仏の願行を機無、円成するが故に、仏の世界に行かれるのだ。だから遠生の結縁では絶対にない。
　帰命の一念に必得往生出来るのだ。」
　大心海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　無上宝珠、功徳の大宝海といわれ、どんな悪機をも助ける力を有する南无阿弥陀仏の名号は阿弥陀仏の四十八願の中の第十七番目に約束せられてあるから、その十七願成就して出来上がったものである。<br />
　即ち十七願には<br />
「設え、我れ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏悉く咨嗟して、我が名を称せずば、正覚を取らじ」<br />
と誓われ、『成就文』には、この願の成就したことを、<br />
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを、讃嘆したまう」<br />
と説かれている。<br />
　これによって明らかな通り法蔵菩薩は十方の世界の恒沙無量の諸仏達が等しく讃嘆せずにおれない威神功徳不可思議な力を持つ名号六字を、成就して見せることを確約し、遂にその約束を果して名号を成就せられたのだ。<br />
　威神功徳不可思議というのは、一切衆生を十八願に約束した通りに、大満足、大安心、日本晴れの信楽の身に救済する力用を具えている名号であることを示している。十方の諸仏が名号六字の妙徳をほめたたえるということは名号が単なる符丁ではなく、私達を本当に救う力を持っているということに外ならない。故に十七願を名号成就の願というのである。</p>
<p>　この尊高無比の名号、尊号嘉号を善導大師は<br />
「南无というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり」<br />
と教えて南无とはタノム機の方であり阿弥陀仏とは助くる法の方である。タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。</p>
<p>　善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国仏教の全盛時代であった。当時、有名な天台、嘉祥、浄影等の諸大師が競って『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。所謂、浄影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。然るに、この下々品の人間は無善造悪で業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。</p>
<p>　南无は帰命、帰命とは身命をなげ出して仏にお願いすることだから南无阿弥陀仏ということは阿弥陀仏さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。唯願無行だ。だから十念の称名念仏は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。今はただ遠生の結縁になるだけである。にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。別時意趣とは無著菩薩の書かれた『摂大乗論』の中に、仏の説法に四意趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。</p>
<p>　これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法の仕方である。諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと言えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。<br />
　しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近ずかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。だから南无阿弥陀仏だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮ぶ縁になるということである。しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。</p>
<p>　この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなくそれ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、これらの迷妄誤解を撃破する為に「今、我が延ぶるところ、仏の願意に叶いませば夢中に霊相を示し給え」と日々阿弥陀経を誦すること三遍念仏三万遍相続され十方諸仏に証明を乞われたという。かくて夜毎に化仏来りて一々仏の指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。</p>
<p>　この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀仏の目的ではないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修業が出来ようか、仏の慈悲は苦あるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。しかもその南无阿弥陀仏の名号は諸師の云われるような唯願無行では絶対にない。</p>
<p>　何故なら、南无というは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち是その行なり。如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中に、ととのえてあるから必ず往生が出来るのだ。願行具足といっても凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。<br />
　仏の願行を機無、円成するが故に、仏の世界に行かれるのだ。だから遠生の結縁では絶対にない。<br />
　帰命の一念に必得往生出来るのだ。」<br />
　大心海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=71</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=71" />
	</item>
		<item>
		<title>南無阿弥陀仏が成就するまで</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=69</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=69#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 14 Oct 2009 01:05:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=69</guid>
		<description><![CDATA[　平生業成、現生不退、不体失往生させずば正覚を取らないという無上殊勝の願、超世不共の大願については今までにほぼ明らかにして来たが、どんなに立派な願いが建てられても、それにともなう行がなければ一切は成就しないわけである。
　或る道楽息子が老いた母親に向かって
「おっ母、おっ母の仕事をしている姿を見ると、眼をショボショボさせて鼻汁流して元気がない。もう先も永いことなかろうと思うが、どうだ京都の本願寺へでも参って、ついでに京都見物でもしてこようではないか」と言う。
母親は非常に喜んで
「お前は何時からそんなに孝行者になったのかい。長命はしたいものだ。ではワシを連れていってくれるか」
「連れていかいでどうするか、先の短いおっ母を働かせてばかりいては気の毒だ、オレも一緒に行くぞ」
と息子がいえば最早、母親はシクシク嬉し泣きしている。
「じゃそれではお前、路銀はどれだけ持っているのかい」
と尋ねると極道息子は狼狽して
「とんでもない、オレは連れて行ってはやるが路銀宿銭は一切、おっ母が出すんだ」といったので怒った母親、ねころんでいる息子の頭に持っていた土瓶を投げつけると、息子は
「これは路銀じゃない土瓶だ」
と言ったという笑話があるが、連れていってやりたいという願いはあっても路銀がなければ京都見物はさせられない。この息子のような阿弥陀さんでは我々は救われない。この路銀をつくるのに兆載永劫の苦行がなされたのである。願いが遠大である故に、その願いを成就せんとする行も又遠大にならざるを得ないのは理の当然と言わなければならない。
五劫の思惟によって建立された超世無上の願を満足させる為に兆載永劫の法蔵菩薩の御修行がなされたゆえんである。極悪非道、罪悪深重、難化の三機、難治の三病、逆謗の屍である我々、一息つがざれば無間のドン底に沈むことは必至の我々を無間の苦患を除くだけではなく現世に於ては、正定聚不退、晴れて大満足の明るい身に救いとり未来は報土往生、弥陀同体にする為には並大抵の行では出来ることではない。
　仏教の諸経典の説相を総合すると、凡夫から仏になる為には、五十二位の階次を経なければならないと説かれてある。五十二位の階次とは、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚をいう。これを菩薩の五十二位という。仏さまは最高位の妙覚位に登りつめた方々だから仏々平等だが菩薩さまは修行中の方々だから平等ということは出来ずまだほんの駆け出しの無名の菩薩もあれば観音、勢至、弥勒、文殊、普賢、地蔵といった高位の菩薩、仏さまとすれすれの偉い菩薩もいられるわけである。しかし菩薩は最高位の妙覚（成仏）に至るには三大阿僧祇劫の修行を要すると説かれており十地の中の初地（下から四十一段目）に至るまでに第一大阿僧祇劫、初地から第七地に進むまでに第二大阿僧祇劫、第八地から第十地に至るまでに第三阿僧祇劫を経て等覚、妙覚となるのだと教えられている。阿僧祇劫とは億兆よりも数十桁高い一桁の名であるから大変な長期間をいう。
　古来、初地（四十一位）にまで登ったといわれる方は龍樹と無著の二菩薩のみであって、その外には一人もいない。中国の天台の南嶽慧思禅師が漸く六根清浄位、即ち十信位天台の智者大師がその下位の五品弟子位、即ち、信前に至ったと自ら語っているが十信からではあと十住、十行、十回向の三十段を経て初めて十地であるから如何に難行であり、成仏することは大変なことだということが判るであろう。
けだし、我々が釈尊やその弟子達が短期に仏道を成ぜられたとか、釈尊に会って直ちに阿羅漢となったとかあるのは、皆この一生にして出来たことではない。いずれも過去世久遠において仏道を成ぜられたものの化現か、又過去世に於て、早きは三生、おそきは六十劫、又は早きは四生、おそきは百劫というような長期に亘る修行を続けたものの結果である。恰も、少し木にふれたばかりで柿の実が落ちたということは、すでに長い間、日光に照育され熟し切っていた為であるのと同じ道理である。
　かくて、五劫の思惟と兆載永劫の法蔵菩薩の御修行によって我々を救済する能力を有する名号六字が成就したのである。名号とは南无阿弥陀仏の六字のことである。このことを聖人は『教行信証』信巻に
「一切の羣生海、無始より已来乃至、今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心なく虚仮、諂偽にして真実の心なし。是を以って如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して不可思議兆載永劫に於て菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修一念一刹那も清浄ならざるなく、真心ならざるなし、如来清浄の真心を以って円融、無碍、不可思議、不可称、不可説の至徳を成就したまえり」
と讃嘆なされている通りである。故にこの名号六字には万善万行恒沙の功徳がこもっているから徳本とか本願の嘉号とか徳号とか、無上宝珠とか功徳の大宝海とかいわれ、『御文章』五帖目第十三通には
「それ南无阿弥陀仏ともうす文字は、そのかず、わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること更にそのきわまりなきものなり」
と説かれている如くである。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　平生業成、現生不退、不体失往生させずば正覚を取らないという無上殊勝の願、超世不共の大願については今までにほぼ明らかにして来たが、どんなに立派な願いが建てられても、それにともなう行がなければ一切は成就しないわけである。<br />
　或る道楽息子が老いた母親に向かって<br />
「おっ母、おっ母の仕事をしている姿を見ると、眼をショボショボさせて鼻汁流して元気がない。もう先も永いことなかろうと思うが、どうだ京都の本願寺へでも参って、ついでに京都見物でもしてこようではないか」と言う。</p>
<p>母親は非常に喜んで<br />
「お前は何時からそんなに孝行者になったのかい。長命はしたいものだ。ではワシを連れていってくれるか」<br />
「連れていかいでどうするか、先の短いおっ母を働かせてばかりいては気の毒だ、オレも一緒に行くぞ」<br />
と息子がいえば最早、母親はシクシク嬉し泣きしている。</p>
<p>「じゃそれではお前、路銀はどれだけ持っているのかい」<br />
と尋ねると極道息子は狼狽して</p>
<p>「とんでもない、オレは連れて行ってはやるが路銀宿銭は一切、おっ母が出すんだ」といったので怒った母親、ねころんでいる息子の頭に持っていた土瓶を投げつけると、息子は</p>
<p>「これは路銀じゃない土瓶だ」</p>
<p>と言ったという笑話があるが、連れていってやりたいという願いはあっても路銀がなければ京都見物はさせられない。この息子のような阿弥陀さんでは我々は救われない。この路銀をつくるのに兆載永劫の苦行がなされたのである。願いが遠大である故に、その願いを成就せんとする行も又遠大にならざるを得ないのは理の当然と言わなければならない。</p>
<p>五劫の思惟によって建立された超世無上の願を満足させる為に兆載永劫の法蔵菩薩の御修行がなされたゆえんである。極悪非道、罪悪深重、難化の三機、難治の三病、逆謗の屍である我々、一息つがざれば無間のドン底に沈むことは必至の我々を無間の苦患を除くだけではなく現世に於ては、正定聚不退、晴れて大満足の明るい身に救いとり未来は報土往生、弥陀同体にする為には並大抵の行では出来ることではない。</p>
<p>　仏教の諸経典の説相を総合すると、凡夫から仏になる為には、五十二位の階次を経なければならないと説かれてある。五十二位の階次とは、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚をいう。これを菩薩の五十二位という。仏さまは最高位の妙覚位に登りつめた方々だから仏々平等だが菩薩さまは修行中の方々だから平等ということは出来ずまだほんの駆け出しの無名の菩薩もあれば観音、勢至、弥勒、文殊、普賢、地蔵といった高位の菩薩、仏さまとすれすれの偉い菩薩もいられるわけである。しかし菩薩は最高位の妙覚（成仏）に至るには三大阿僧祇劫の修行を要すると説かれており十地の中の初地（下から四十一段目）に至るまでに第一大阿僧祇劫、初地から第七地に進むまでに第二大阿僧祇劫、第八地から第十地に至るまでに第三阿僧祇劫を経て等覚、妙覚となるのだと教えられている。阿僧祇劫とは億兆よりも数十桁高い一桁の名であるから大変な長期間をいう。</p>
<p>　古来、初地（四十一位）にまで登ったといわれる方は龍樹と無著の二菩薩のみであって、その外には一人もいない。中国の天台の南嶽慧思禅師が漸く六根清浄位、即ち十信位天台の智者大師がその下位の五品弟子位、即ち、信前に至ったと自ら語っているが十信からではあと十住、十行、十回向の三十段を経て初めて十地であるから如何に難行であり、成仏することは大変なことだということが判るであろう。</p>
<p>けだし、我々が釈尊やその弟子達が短期に仏道を成ぜられたとか、釈尊に会って直ちに阿羅漢となったとかあるのは、皆この一生にして出来たことではない。いずれも過去世久遠において仏道を成ぜられたものの化現か、又過去世に於て、早きは三生、おそきは六十劫、又は早きは四生、おそきは百劫というような長期に亘る修行を続けたものの結果である。恰も、少し木にふれたばかりで柿の実が落ちたということは、すでに長い間、日光に照育され熟し切っていた為であるのと同じ道理である。</p>
<p>　かくて、五劫の思惟と兆載永劫の法蔵菩薩の御修行によって我々を救済する能力を有する名号六字が成就したのである。名号とは南无阿弥陀仏の六字のことである。このことを聖人は『教行信証』信巻に</p>
<p>「一切の羣生海、無始より已来乃至、今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心なく虚仮、諂偽にして真実の心なし。是を以って如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して不可思議兆載永劫に於て菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修一念一刹那も清浄ならざるなく、真心ならざるなし、如来清浄の真心を以って円融、無碍、不可思議、不可称、不可説の至徳を成就したまえり」</p>
<p>と讃嘆なされている通りである。故にこの名号六字には万善万行恒沙の功徳がこもっているから徳本とか本願の嘉号とか徳号とか、無上宝珠とか功徳の大宝海とかいわれ、『御文章』五帖目第十三通には</p>
<p>「それ南无阿弥陀仏ともうす文字は、そのかず、わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること更にそのきわまりなきものなり」</p>
<p>と説かれている如くである。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=69</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=69" />
	</item>
		<item>
		<title>南無阿弥陀仏　大宇宙の諸仏が絶賛</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=66</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=66#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 02 Sep 2009 01:23:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[南無阿弥陀仏とは]]></category>
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=66</guid>
		<description><![CDATA[「南無阿弥陀仏」の六字を名号という。この南無阿弥陀仏を見て、「何のまじないですか」と聞く人もあれば、「南に阿弥陀仏が無い？弥陀の浄土は西だから当然じゃろう」と嘯く者もいる。だが名号六字の大功徳は、迷った人間の智恵では分からないのだ。
　釈尊は『大無量寿経』に、こう説かれている。
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に、無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したもう」

「十方」とは十方微塵世界の略で、大宇宙のこと。
「恒沙」とは、インドを流れるガンジス川の砂の意で、その数は無限といっていいだろう。広大な宇宙には、地球のようなものは無数にあり、地球に釈迦如来が現れたように、大宇宙には数限りもない仏がましますことを、「十方恒沙の諸仏如来」と言われている。
「皆共に」とは、すべての仏が例外なく。
「無量寿仏」は阿弥陀仏の別名で、
「威神功徳の不可思議」とは、想像もできない凄い働きのある名号のことである。
　だからこの一文で釈尊は、大宇宙にまします数え切れないほどの諸仏方が異口同音に、阿弥陀仏のつくられた「南無阿弥陀仏」の想像を超えた大功徳を褒め称えていられると、おっしゃっているのである。
仏さまですら「不可思議」と言われるほど、偉大な働きが名号にはあるのだ。
　蓮如上人は、これを『御文章』に分かりやすく教示されている。
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり」

「南無阿弥陀仏」の名号は、たった六つの文字だから、そんなに凄い力があるとは誰も思えないだろうが、それは猫に小判、ブタに真珠。我々凡夫に、値を知る智恵が無いからだ。
　この六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸福にする絶大な働きがあるのだ。その広大さは、天の際限のないようなものである、と懇切に仰せである。
　蓮如上人ご自身が何よりも明らかに知らされたことだが、「この蓮如は」とは言われずに、名号の大功徳のみを言葉を尽くして讃嘆なされているのは、親鸞学徒に徹していられたからであろう。
　では、一切の諸仏が絶讃する「南無阿弥陀仏」には、どんな力があるのか。
　それこそが、全人類の苦悩の根元である無明の闇（後生暗い心）を一念でぶち破り、破闇満願、絶対の幸福に救う、不可称不可説不可思議の大功徳なのである。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong><span style="color: #ff0000;">「南無阿弥陀仏」</span></strong>の六字を名号という。この南無阿弥陀仏を見て、「何のまじないですか」と聞く人もあれば、「南に阿弥陀仏が無い？弥陀の浄土は西だから当然じゃろう」と嘯く者もいる。だが名号六字の大功徳は、迷った人間の智恵では分からないのだ。</p>
<p>　釈尊は『大無量寿経』に、こう説かれている。</p>
<p><strong><span style="color: #800080;">「十方恒沙の諸仏如来、皆共に、無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したもう」<br />
</span></strong></p>
<p><strong><span style="color: #800080;">「十方<strong>」</strong></span></strong>とは十方微塵世界の略で、大宇宙のこと。</p>
<p><strong><span style="color: #800080;">「恒沙」</span></strong>とは、インドを流れるガンジス川の砂の意で、その数は無限といっていいだろう。広大な宇宙には、地球のようなものは無数にあり、地球に釈迦如来が現れたように、大宇宙には数限りもない仏がましますことを、「十方恒沙の諸仏如来」と言われている。</p>
<p><strong><span style="color: #800080;">「皆共に」</span></strong>とは、すべての仏が例外なく。</p>
<p><strong><span style="color: #800080;">「無量寿仏」</span></strong>は阿弥陀仏の別名で、</p>
<p><strong><span style="color: #800080;">「威神功徳の不可思議」</span></strong>とは、想像もできない凄い働きのある名号のことである。</p>
<p>　だからこの一文で釈尊は、大宇宙にまします数え切れないほどの諸仏方が異口同音に、阿弥陀仏のつくられた「南無阿弥陀仏」の想像を超えた大功徳を褒め称えていられると、おっしゃっているのである。</p>
<p>仏さまですら「不可思議」と言われるほど、偉大な働きが名号にはあるのだ。</p>
<p>　蓮如上人は、これを『御文章』に分かりやすく教示されている。</p>
<p><strong><span style="color: #0000ff;">「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり」<br />
</span></strong></p>
<p>「南無阿弥陀仏」の名号は、たった六つの文字だから、そんなに凄い力があるとは誰も思えないだろうが、それは猫に小判、ブタに真珠。我々凡夫に、値を知る智恵が無いからだ。<br />
　この六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸福にする絶大な働きがあるのだ。その広大さは、天の際限のないようなものである、と懇切に仰せである。<br />
　蓮如上人ご自身が何よりも明らかに知らされたことだが、「この蓮如は」とは言われずに、名号の大功徳のみを言葉を尽くして讃嘆なされているのは、親鸞学徒に徹していられたからであろう。</p>
<p>　では、一切の諸仏が絶讃する「南無阿弥陀仏」には、どんな力があるのか。<br />
　それこそが、<strong><span style="background-color: #ffffff;"><span style="color: #ff0000;">全人類の苦悩の根元である無明の闇（後生暗い心）を一念でぶち破り、破闇満願、絶対の幸福に救う、不可称不可説不可思議の大功徳なのである。</span></span></strong></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=66</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=66" />
	</item>
		<item>
		<title>南無阿弥陀仏について</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=38</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=38#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 09 Jul 2009 05:24:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[南無阿弥陀仏とは]]></category>
		<category><![CDATA[南無阿弥陀仏・雑談]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=38</guid>
		<description><![CDATA[人は『生きるのは何のため？』『生きるとは？』『死んだらどうなるの？』など、そういったことを一度くらいは考えたことがあるかと思います。
なぜ生きているのか、生きるとはどういったことなのか、私は親鸞会の人と知り合ってから、そういったいろいろなことを教えていただく機会に恵まれました。
その中でも因果の道理・因果応報という教えはすごく衝撃的でした。今の時勢、善人がしいたげられ、悪人がのさばっている事が多いですよね。何が善くて何が悪いのかなんてわからなくなってきていますが、悪いことをした人への報いというのは必ず現れるというのが
因果の道理、因果応報ということです。仏さまの眼から見られれば、善い行いをすれば善い結果がくるのは当たり前であり・・・悪い行いをすれば、悪い結果を受けるのも当たり前なのです。
良い行いをしていれば心が変わります。たとえ生活は豊かではなくても今の瞬間を『ありがたい』と思いながら生きることができるのです。お釈迦様の説かれます『因果応報』とは実践をもって本当の意味がしらされるのだと少しずつですがわかってきました。
さて、南無阿弥陀仏の話に戻りますが、『大無量寿経（佛説無量寿経）』には、この世で阿弥陀仏に救われて、『南無阿弥陀仏』とお礼の念仏を称える身になれば、いつ死んでも阿弥陀仏の浄土へ往って、阿弥陀仏と同じ仏として生まれることができると説かれています。
それはなぜかというと、阿弥陀仏が４８の誓願『四十八願』を建立し、その中でも特に１８番目の願である本願にそのようにして見せると誓われたのだそうです。
南無阿弥陀仏について書いていますが、以前は、言葉だけ知っていて、南無阿弥陀仏がこんなにも深い言葉だとは夢にも思いませんでした。
学んだことを今後も書いていきたいと思います。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>人は『生きるのは何のため？』『<a href="http://www.nokkamin.com/" target="_blank">生きるとは</a>？』『死んだらどうなるの？』など、そういったことを一度くらいは考えたことがあるかと思います。<br />
なぜ生きているのか、生きるとはどういったことなのか、私は<a href="http://www.shinrankai.com/" target="_blank">親鸞会</a>の人と知り合ってから、そういったいろいろなことを教えていただく機会に恵まれました。</p>
<p>その中でも因果の道理・<a href="http://www.kevin-whelan.com/" target="_blank">因果応報</a>という教えはすごく衝撃的でした。今の時勢、善人がしいたげられ、悪人がのさばっている事が多いですよね。何が善くて何が悪いのかなんてわからなくなってきていますが、悪いことをした人への報いというのは必ず現れるというのが<br />
因果の道理、因果応報ということです。仏さまの眼から見られれば、善い行いをすれば善い結果がくるのは当たり前であり・・・悪い行いをすれば、悪い結果を受けるのも当たり前なのです。</p>
<p>良い行いをしていれば心が変わります。たとえ生活は豊かではなくても今の瞬間を『ありがたい』と思いながら生きることができるのです。お釈迦様の説かれます『因果応報』とは実践をもって本当の意味がしらされるのだと少しずつですがわかってきました。</p>
<p>さて、南無阿弥陀仏の話に戻りますが、『大無量寿経（佛説無量寿経）』には、この世で阿弥陀仏に救われて、『南無阿弥陀仏』とお礼の念仏を称える身になれば、いつ死んでも阿弥陀仏の浄土へ往って、阿弥陀仏と同じ仏として生まれることができると説かれています。</p>
<p>それはなぜかというと、阿弥陀仏が４８の誓願『四十八願』を建立し、その中でも特に１８番目の願である本願にそのようにして見せると誓われたのだそうです。</p>
<p>南無阿弥陀仏について書いていますが、以前は、言葉だけ知っていて、南無阿弥陀仏がこんなにも深い言葉だとは夢にも思いませんでした。<br />
学んだことを今後も書いていきたいと思います。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=38</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=38" />
	</item>
		<item>
		<title>南無阿弥陀仏・信心</title>
		<link>http://www.mathactive.com/?p=33</link>
		<comments>http://www.mathactive.com/?p=33#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 23 Jun 2009 06:59:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>みどり</dc:creator>
				<category><![CDATA[南無阿弥陀仏とは]]></category>
		<category><![CDATA[南無阿弥陀仏・雑談]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mathactive.com/?p=33</guid>
		<description><![CDATA[『南無阿弥陀仏』とえば念仏を思い出す人が多いと思います。
でも念仏という言葉は有名ですが、念仏ってなんなのでしょう？
南無阿弥陀仏と一度でも称えたら極楽へいけるなどと耳にしたことがありますが、
本当なのでしょうか？
親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人は御文章に
分かりやすく教えています。
「名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり」（一帖十五通）
「ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず」
（三帖三通）
「まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり」
（三帖五通）
このような証文は、まだまだたくさんあります。
「ただ念仏さえ称えていれば助かる」というのは、間違いということがよく分かられると思います。
また後で詳しく書きたいと思いますが、念仏は阿弥陀仏に救われたお礼の言葉なのです。
親鸞会の人と友だちになってから、南無阿弥陀仏について考えるようになってきました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と仏壇の前で称えていて、地獄極楽について語るおばあちゃんの傍で育ってきた私は、南無阿弥陀仏なんて言葉が到底理解できないような頃から聞いていたので、何の違和感もなく聞き入れていました。今となってようやくその意味が少しずつわかり、おばあちゃんは私にこう言ったことを伝えたかったのかな？という気がします。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>『南無阿弥陀仏』とえば念仏を思い出す人が多いと思います。<br />
でも念仏という言葉は有名ですが、念仏ってなんなのでしょう？<br />
南無阿弥陀仏と一度でも称えたら極楽へいけるなどと耳にしたことがありますが、<br />
本当なのでしょうか？</p>
<p>親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人は御文章に<br />
分かりやすく教えています。</p>
<p>「名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり」（一帖十五通）</p>
<p>「ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず」<br />
（三帖三通）</p>
<p>「まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり」<br />
（三帖五通）</p>
<p>このような証文は、まだまだたくさんあります。<br />
「ただ念仏さえ称えていれば助かる」というのは、間違いということがよく分かられると思います。<br />
また後で詳しく書きたいと思いますが、念仏は阿弥陀仏に救われたお礼の言葉なのです。</p>
<p><a href="http://www.shinrankai.net/" target="_blank">親鸞会</a>の人と友だちになってから、南無阿弥陀仏について考えるようになってきました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と仏壇の前で称えていて、<a href="http://www.salvationsobe.com/" target="_blank">地獄極楽</a>について語るおばあちゃんの傍で育ってきた私は、南無阿弥陀仏なんて言葉が到底理解できないような頃から聞いていたので、何の違和感もなく聞き入れていました。今となってようやくその意味が少しずつわかり、おばあちゃんは私にこう言ったことを伝えたかったのかな？という気がします。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.mathactive.com/?feed=rss2&amp;p=33</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.mathactive.com/?p=33" />
	</item>
	</channel>
</rss>
