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御本尊は南無阿弥陀仏
みどり | 未分類『正信偈』に「善導独明仏正意」と、親鸞聖人が絶賛される善導大師最大の功績は、古今楷定といわれる「南無阿弥陀仏」の六字の妙釈である。 蓮如上人はこの「六字釈」を大変重視せられ、『御文章』に何カ所も引用されている。例えば五帖目十一通の中には、六字釈とその意味が解説されている。
「善導のいわく、『南無というは帰命、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行』といえり。『南無』という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。
さて、『阿弥陀仏』という四の字の意は、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなく助けたまえる謂が、即ち阿弥陀仏の四の字のこころなり。されば、南無阿弥陀仏の体を、此の如く心得わけたるを、信心を取るとはいうなり」
凡夫の我々には、真実を真実と信じられる「まことの心」は微塵もない。五劫の思惟でそれを見抜かれた本師本仏の阿弥陀仏が、信ずる「まことの心」まで用意なされ、「南無」の二字として、南無阿弥陀仏に収められている。
だから南無阿弥陀仏の六字には、信ずるまことの心(南無)も、助けるまことの力(阿弥陀仏)も成就されており、阿弥陀仏からこの名号を受け取る一念(信心獲得)で、いつ死んでも浄土往生できる身にさせていただけるのである。
他力の信心といっても、この名号六字の外にはない。
『御文章』に何箇所も書かれてあるとおりだ。
だからこそ親鸞聖人は、一生涯、南無阿弥陀仏の御名号を本尊となされたのであり、親鸞学徒は、そのとおりさせていただくのである。
ところが今日の浄土真宗では、御名号を本尊とせられた親鸞聖人の重大な御心はそっちのけにされ、全国の寺院、門徒の仏壇とも、木像・絵像本尊で統一されている。
それでも最近、西本願寺の御本尊の見解に、多少なりとも変化が見られるようになってきたので紹介しよう。
それは、主に住職が読む『宗報』に記された「浄土真宗の教章(私の歩む道)」の解説記事である。
「教章」とは、「宗門にご縁のある一人ひとりが、心得ておくべき浄土真宗の要旨」とあり、その中で御本尊を「阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」と規定している理由を、本願寺の教学伝道研究センターの所長が次のように説明していた。
〈それは、本願成就文に「聞其名号」とあるように、私たちが直接出遇っている如来さまは、「南無阿弥陀仏」の名号だからです。そこには、私たちの信心としての帰命の「南無」まで用意してくださって、私のもとに来てくださる如来さまなのです。
だから、「南無」まで含めて本尊とするのであり、「阿弥陀仏」だけを本尊とするのではありません。私たちの出遇っている如来さまは、「南無」まで用意してくださった「南無阿弥陀仏」なのです〉
ところが、そこまで書いておきながら、
〈他宗の論理では、木像が最も詳細なお姿で、絵像・名号は簡略化と思われがちですが、当流では全く同等です〉。結局、「木像も絵像も名号も全く同等」という従来と変わらぬ主張で結んでいるのである。
それでは「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは名号』というなり、当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」(御一代記聞書)の蓮如上人のご教示はどうなるのだろう、という気もするが、そう書かざるを得ない歴史的苦悩を垣間見る思いがした。
しかし本願成就文の「聞其名号」までさかのぼり、『宗報』に〈「南無」まで含めて本尊とするのであり、「阿弥陀仏」だけを本尊とするのではありません〉と書いて、住職に徹底しようとしている姿勢は、今までなかったことであり、ゆっくりとだが、確実に浄土真宗は「親鸞学徒の本道」に向かおうとしている。

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