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もちろん、親鸞会のオリジナルではなくて、お釈迦様が教えられたこと。
この病にかかっているから、何をしても、何を手にいれても、
心からの安心もなければ、満足もないのです。
お釈迦様は、有っても苦しみ、無くても苦しみ、「有無同然(うむどうぜん)」
と教えられています。
ちょうど、モノが無くて苦しんでいるのは、鉄の鎖で縛られているようなもの、
モノが有って苦しんでいるのは、金の鎖で縛られているようなものです。
縛っているものは違っても、縛られているという事実は同じ。
病気の人は、どんな山海の珍味もおいしくいただけないように、
心の暗い人は、何を手にいれても満足できないのです。
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では、無明業障の恐ろしき病とは、後生暗い心であり、これこそが苦悩の根元であると親鸞会の友人から聞きました。
人間、生まれたからには必ず死なねばなりません。それは、今日かも知れませんし、明日かも知れません。
親鸞聖人は、9歳で出家されるときに
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
と歌っておられます。
今日をさかりと咲く花も一陣の嵐でみな散ってしまいます。
桜の花よりはかないものが人の命といわれます、
明日といわず、今日、出家させていただけないでしょうかと申し出たといわれます。
確実な未来、今夜かもしれない後生が、暗い、不安な心を抱えているのです。
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では、無明業障の恐ろしき病とは、いかなる病なのでしょうか?
無明とは、「後生暗い心」をいいます。
人間生まれたからには死なねばなりません。
死ねば後生です。
その確実な未来が暗いのです。
この後生暗い心こそが苦悩の根元であると親鸞会の友人から聞きました。
そのことについて、これから書いていきたいと思います。
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南無阿弥陀仏は無明業障の恐ろしき病を治す薬だと前回書いておりました。
では、無明業障の恐ろしき病とは、いかなる病なのでしょうか?
無明とは、明かりがなく、暗い、ということです。
暗い、ということは「分からない」という意味。
よく、このあたりの地理にくらい、などといいますが、
それは、この辺のことはよく分からない、ということです。
ですから、ここでいう「暗い」とは「分からない」という意味。
では、なにが分からないのでしょうか?
ここでいう「暗い」とは、「後生暗い」という意味です。
後生とは、後に生まれると書いて、死んだあとのこと。
死んだあと、どうなっているか分からない、死後に暗い心を後生暗い心、といい、その心を「無明」と言われるのです。
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南無阿弥陀仏は薬にたとえられますが、いったいどんな病を治す薬なのでしょうか?
この病は、肉体の病ではありません。
心の病を治すお薬なのです。
仏教では全人類は、心の病にかかっていると教えられています。
では、いったいどんな病にかかっているのでしょうか?
それは「無明業障の恐ろしき病」だと教えられています。
いったい無明業障の恐ろしき病とはどんな病なのでしょうか?
次回から無明業障の恐ろしき病について書いていきたいと思います。
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南無阿弥陀仏を造られた仏・2
みどり | 南無阿弥陀仏と阿弥陀仏南無阿弥陀仏は、心の病を治す薬に例えられますが、その薬を造られた方は、阿弥陀仏です。
阿弥陀仏という仏様は、本師本仏といわれ、すべての仏の先生です。
この大宇宙には、地球のようなものが数かぎりなくあります。
そこに仏様が現れておられますので、仏様もまた限りなくまします。
これら大宇宙の仏方を、十方諸仏(じっぽうしょぶつ)といいます。
お釈迦様はガンジス河の砂の数ほどの仏様がましますと説かれています。
よく知られているのが、大日如来とか、薬師如来、奈良の大仏は、ビルシャナ如来といわれる仏ですが、これらは皆、十方諸仏のお一人です。
この大宇宙の仏方の先生が、阿弥陀仏なのです。
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御本尊は南無阿弥陀仏
みどり | 未分類『正信偈』に「善導独明仏正意」と、親鸞聖人が絶賛される善導大師最大の功績は、古今楷定といわれる「南無阿弥陀仏」の六字の妙釈である。 蓮如上人はこの「六字釈」を大変重視せられ、『御文章』に何カ所も引用されている。例えば五帖目十一通の中には、六字釈とその意味が解説されている。
「善導のいわく、『南無というは帰命、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行』といえり。『南無』という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。
さて、『阿弥陀仏』という四の字の意は、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなく助けたまえる謂が、即ち阿弥陀仏の四の字のこころなり。されば、南無阿弥陀仏の体を、此の如く心得わけたるを、信心を取るとはいうなり」
凡夫の我々には、真実を真実と信じられる「まことの心」は微塵もない。五劫の思惟でそれを見抜かれた本師本仏の阿弥陀仏が、信ずる「まことの心」まで用意なされ、「南無」の二字として、南無阿弥陀仏に収められている。
だから南無阿弥陀仏の六字には、信ずるまことの心(南無)も、助けるまことの力(阿弥陀仏)も成就されており、阿弥陀仏からこの名号を受け取る一念(信心獲得)で、いつ死んでも浄土往生できる身にさせていただけるのである。
他力の信心といっても、この名号六字の外にはない。
『御文章』に何箇所も書かれてあるとおりだ。
だからこそ親鸞聖人は、一生涯、南無阿弥陀仏の御名号を本尊となされたのであり、親鸞学徒は、そのとおりさせていただくのである。
ところが今日の浄土真宗では、御名号を本尊とせられた親鸞聖人の重大な御心はそっちのけにされ、全国の寺院、門徒の仏壇とも、木像・絵像本尊で統一されている。
それでも最近、西本願寺の御本尊の見解に、多少なりとも変化が見られるようになってきたので紹介しよう。
それは、主に住職が読む『宗報』に記された「浄土真宗の教章(私の歩む道)」の解説記事である。
「教章」とは、「宗門にご縁のある一人ひとりが、心得ておくべき浄土真宗の要旨」とあり、その中で御本尊を「阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」と規定している理由を、本願寺の教学伝道研究センターの所長が次のように説明していた。
〈それは、本願成就文に「聞其名号」とあるように、私たちが直接出遇っている如来さまは、「南無阿弥陀仏」の名号だからです。そこには、私たちの信心としての帰命の「南無」まで用意してくださって、私のもとに来てくださる如来さまなのです。
だから、「南無」まで含めて本尊とするのであり、「阿弥陀仏」だけを本尊とするのではありません。私たちの出遇っている如来さまは、「南無」まで用意してくださった「南無阿弥陀仏」なのです〉
ところが、そこまで書いておきながら、
〈他宗の論理では、木像が最も詳細なお姿で、絵像・名号は簡略化と思われがちですが、当流では全く同等です〉。結局、「木像も絵像も名号も全く同等」という従来と変わらぬ主張で結んでいるのである。
それでは「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは名号』というなり、当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」(御一代記聞書)の蓮如上人のご教示はどうなるのだろう、という気もするが、そう書かざるを得ない歴史的苦悩を垣間見る思いがした。
しかし本願成就文の「聞其名号」までさかのぼり、『宗報』に〈「南無」まで含めて本尊とするのであり、「阿弥陀仏」だけを本尊とするのではありません〉と書いて、住職に徹底しようとしている姿勢は、今までなかったことであり、ゆっくりとだが、確実に浄土真宗は「親鸞学徒の本道」に向かおうとしている。

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