南無阿弥陀仏について学ぼう

南無阿弥陀仏について紹介しています

  • Home
Subscribe to 南無阿弥陀仏について学ぼう
2月
8

南無阿弥陀仏を称うれば

みどり | 未分類

「南無阿弥陀仏を称うれば
 梵王帝釈帰敬す
 諸天善神ことごとく
 よるひるつねにまもるなり」(冥衆護持の益)

「南無阿弥陀仏を称うれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもりたもうなり」(諸仏護念の益)

「金剛堅固の信心の
 定まる時をまちえてぞ
 弥陀の心光摂護して
 永く生死をへだてける」(心光常護の益)

“このざまで 善果来ぬとは ふざけてる”
「ああならん」「こうならん」と不満タラタラの私。
 それ位の善果が来て当然の善人だと自惚れている。
どんな悪報を受けても、文句の言えない、悪性の限りを尽している私が、諸神や菩薩、諸仏、無上仏に護られて一日一日、恵まれすぎていることを感謝せずにおれない。

この「南無阿弥陀仏を称うれば」とは、阿弥陀仏に救い摂られ、念仏を称える人は、の意で、だれでもかれでも南無阿弥陀仏と口でさえ称えておれば、ということではありません。

親鸞会では、名号・信心・念仏の関係を詳しく、分かりやすく教えています。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
2月
1

18願を心得るとは南無阿弥陀仏を心得る

みどり | 未分類

信心獲得すというは、
第十八の願を心得るなり。
この願を心得るというは、
南無阿弥陀仏のすがたを
心得るなり。

(蓮如上人『御文章』五帖目五通)

 阿弥陀仏が、「すべての人は極悪人である」と見抜かれた上で「〝南無阿弥陀仏〟を与えて、必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われているお約束が、弥陀の本願(第十八の願)です。
 信心獲得とは、その誓いどおりに現在ただ今、絶対の幸福に救い摂られて「本願まことだった、本当だった」と知らされたことで、それを「第十八の願を心得る」というのです。
 それは、破闇満願の大功徳のある〝南無阿弥陀仏〟の名号を弥陀から丸もらいして、「無上甚深の功徳利益であった」とハッキリしたことですから、「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」とも言われているのです。 

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
12月
10

無上宝珠の南無阿弥陀仏

みどり | 未分類

 無上宝珠、功徳の大宝海といわれ、どんな悪機をも助ける力を有する南无阿弥陀仏の名号は阿弥陀仏の四十八願の中の第十七番目に約束せられてあるから、その十七願成就して出来上がったものである。
 即ち十七願には
「設え、我れ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏悉く咨嗟して、我が名を称せずば、正覚を取らじ」
と誓われ、『成就文』には、この願の成就したことを、
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを、讃嘆したまう」
と説かれている。
 これによって明らかな通り法蔵菩薩は十方の世界の恒沙無量の諸仏達が等しく讃嘆せずにおれない威神功徳不可思議な力を持つ名号六字を、成就して見せることを確約し、遂にその約束を果して名号を成就せられたのだ。
 威神功徳不可思議というのは、一切衆生を十八願に約束した通りに、大満足、大安心、日本晴れの信楽の身に救済する力用を具えている名号であることを示している。十方の諸仏が名号六字の妙徳をほめたたえるということは名号が単なる符丁ではなく、私達を本当に救う力を持っているということに外ならない。故に十七願を名号成就の願というのである。

 この尊高無比の名号、尊号嘉号を善導大師は
「南无というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり」
と教えて南无とはタノム機の方であり阿弥陀仏とは助くる法の方である。タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。

 善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国仏教の全盛時代であった。当時、有名な天台、嘉祥、浄影等の諸大師が競って『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。所謂、浄影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。然るに、この下々品の人間は無善造悪で業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。

 南无は帰命、帰命とは身命をなげ出して仏にお願いすることだから南无阿弥陀仏ということは阿弥陀仏さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。唯願無行だ。だから十念の称名念仏は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。今はただ遠生の結縁になるだけである。にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。別時意趣とは無著菩薩の書かれた『摂大乗論』の中に、仏の説法に四意趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。

 これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法の仕方である。諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと言えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。
 しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近ずかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。だから南无阿弥陀仏だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮ぶ縁になるということである。しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。

 この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなくそれ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、これらの迷妄誤解を撃破する為に「今、我が延ぶるところ、仏の願意に叶いませば夢中に霊相を示し給え」と日々阿弥陀経を誦すること三遍念仏三万遍相続され十方諸仏に証明を乞われたという。かくて夜毎に化仏来りて一々仏の指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。

 この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀仏の目的ではないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修業が出来ようか、仏の慈悲は苦あるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。しかもその南无阿弥陀仏の名号は諸師の云われるような唯願無行では絶対にない。

 何故なら、南无というは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち是その行なり。如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中に、ととのえてあるから必ず往生が出来るのだ。願行具足といっても凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。
 仏の願行を機無、円成するが故に、仏の世界に行かれるのだ。だから遠生の結縁では絶対にない。
 帰命の一念に必得往生出来るのだ。」
 大心海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
10月
14

南無阿弥陀仏が成就するまで

みどり | 未分類

 平生業成、現生不退、不体失往生させずば正覚を取らないという無上殊勝の願、超世不共の大願については今までにほぼ明らかにして来たが、どんなに立派な願いが建てられても、それにともなう行がなければ一切は成就しないわけである。
 或る道楽息子が老いた母親に向かって
「おっ母、おっ母の仕事をしている姿を見ると、眼をショボショボさせて鼻汁流して元気がない。もう先も永いことなかろうと思うが、どうだ京都の本願寺へでも参って、ついでに京都見物でもしてこようではないか」と言う。

母親は非常に喜んで
「お前は何時からそんなに孝行者になったのかい。長命はしたいものだ。ではワシを連れていってくれるか」
「連れていかいでどうするか、先の短いおっ母を働かせてばかりいては気の毒だ、オレも一緒に行くぞ」
と息子がいえば最早、母親はシクシク嬉し泣きしている。

「じゃそれではお前、路銀はどれだけ持っているのかい」
と尋ねると極道息子は狼狽して

「とんでもない、オレは連れて行ってはやるが路銀宿銭は一切、おっ母が出すんだ」といったので怒った母親、ねころんでいる息子の頭に持っていた土瓶を投げつけると、息子は

「これは路銀じゃない土瓶だ」

と言ったという笑話があるが、連れていってやりたいという願いはあっても路銀がなければ京都見物はさせられない。この息子のような阿弥陀さんでは我々は救われない。この路銀をつくるのに兆載永劫の苦行がなされたのである。願いが遠大である故に、その願いを成就せんとする行も又遠大にならざるを得ないのは理の当然と言わなければならない。

五劫の思惟によって建立された超世無上の願を満足させる為に兆載永劫の法蔵菩薩の御修行がなされたゆえんである。極悪非道、罪悪深重、難化の三機、難治の三病、逆謗の屍である我々、一息つがざれば無間のドン底に沈むことは必至の我々を無間の苦患を除くだけではなく現世に於ては、正定聚不退、晴れて大満足の明るい身に救いとり未来は報土往生、弥陀同体にする為には並大抵の行では出来ることではない。

 仏教の諸経典の説相を総合すると、凡夫から仏になる為には、五十二位の階次を経なければならないと説かれてある。五十二位の階次とは、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚をいう。これを菩薩の五十二位という。仏さまは最高位の妙覚位に登りつめた方々だから仏々平等だが菩薩さまは修行中の方々だから平等ということは出来ずまだほんの駆け出しの無名の菩薩もあれば観音、勢至、弥勒、文殊、普賢、地蔵といった高位の菩薩、仏さまとすれすれの偉い菩薩もいられるわけである。しかし菩薩は最高位の妙覚(成仏)に至るには三大阿僧祇劫の修行を要すると説かれており十地の中の初地(下から四十一段目)に至るまでに第一大阿僧祇劫、初地から第七地に進むまでに第二大阿僧祇劫、第八地から第十地に至るまでに第三阿僧祇劫を経て等覚、妙覚となるのだと教えられている。阿僧祇劫とは億兆よりも数十桁高い一桁の名であるから大変な長期間をいう。

 古来、初地(四十一位)にまで登ったといわれる方は龍樹と無著の二菩薩のみであって、その外には一人もいない。中国の天台の南嶽慧思禅師が漸く六根清浄位、即ち十信位天台の智者大師がその下位の五品弟子位、即ち、信前に至ったと自ら語っているが十信からではあと十住、十行、十回向の三十段を経て初めて十地であるから如何に難行であり、成仏することは大変なことだということが判るであろう。

けだし、我々が釈尊やその弟子達が短期に仏道を成ぜられたとか、釈尊に会って直ちに阿羅漢となったとかあるのは、皆この一生にして出来たことではない。いずれも過去世久遠において仏道を成ぜられたものの化現か、又過去世に於て、早きは三生、おそきは六十劫、又は早きは四生、おそきは百劫というような長期に亘る修行を続けたものの結果である。恰も、少し木にふれたばかりで柿の実が落ちたということは、すでに長い間、日光に照育され熟し切っていた為であるのと同じ道理である。

 かくて、五劫の思惟と兆載永劫の法蔵菩薩の御修行によって我々を救済する能力を有する名号六字が成就したのである。名号とは南无阿弥陀仏の六字のことである。このことを聖人は『教行信証』信巻に

「一切の羣生海、無始より已来乃至、今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心なく虚仮、諂偽にして真実の心なし。是を以って如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して不可思議兆載永劫に於て菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修一念一刹那も清浄ならざるなく、真心ならざるなし、如来清浄の真心を以って円融、無碍、不可思議、不可称、不可説の至徳を成就したまえり」

と讃嘆なされている通りである。故にこの名号六字には万善万行恒沙の功徳がこもっているから徳本とか本願の嘉号とか徳号とか、無上宝珠とか功徳の大宝海とかいわれ、『御文章』五帖目第十三通には

「それ南无阿弥陀仏ともうす文字は、そのかず、わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること更にそのきわまりなきものなり」

と説かれている如くである。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
9月
2

南無阿弥陀仏 大宇宙の諸仏が絶賛

みどり | 南無阿弥陀仏とは, 未分類

「南無阿弥陀仏」の六字を名号という。この南無阿弥陀仏を見て、「何のまじないですか」と聞く人もあれば、「南に阿弥陀仏が無い?弥陀の浄土は西だから当然じゃろう」と嘯く者もいる。だが名号六字の大功徳は、迷った人間の智恵では分からないのだ。

 釈尊は『大無量寿経』に、こう説かれている。

「十方恒沙の諸仏如来、皆共に、無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したもう」

「十方」とは十方微塵世界の略で、大宇宙のこと。

「恒沙」とは、インドを流れるガンジス川の砂の意で、その数は無限といっていいだろう。広大な宇宙には、地球のようなものは無数にあり、地球に釈迦如来が現れたように、大宇宙には数限りもない仏がましますことを、「十方恒沙の諸仏如来」と言われている。

「皆共に」とは、すべての仏が例外なく。

「無量寿仏」は阿弥陀仏の別名で、

「威神功徳の不可思議」とは、想像もできない凄い働きのある名号のことである。

 だからこの一文で釈尊は、大宇宙にまします数え切れないほどの諸仏方が異口同音に、阿弥陀仏のつくられた「南無阿弥陀仏」の想像を超えた大功徳を褒め称えていられると、おっしゃっているのである。

仏さまですら「不可思議」と言われるほど、偉大な働きが名号にはあるのだ。

 蓮如上人は、これを『御文章』に分かりやすく教示されている。

「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり」

「南無阿弥陀仏」の名号は、たった六つの文字だから、そんなに凄い力があるとは誰も思えないだろうが、それは猫に小判、ブタに真珠。我々凡夫に、値を知る智恵が無いからだ。
 この六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸福にする絶大な働きがあるのだ。その広大さは、天の際限のないようなものである、と懇切に仰せである。
 蓮如上人ご自身が何よりも明らかに知らされたことだが、「この蓮如は」とは言われずに、名号の大功徳のみを言葉を尽くして讃嘆なされているのは、親鸞学徒に徹していられたからであろう。

 では、一切の諸仏が絶讃する「南無阿弥陀仏」には、どんな力があるのか。
 それこそが、全人類の苦悩の根元である無明の闇(後生暗い心)を一念でぶち破り、破闇満願、絶対の幸福に救う、不可称不可説不可思議の大功徳なのである。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
7月
9

南無阿弥陀仏について

みどり | 南無阿弥陀仏とは, 南無阿弥陀仏・雑談

人は『生きるのは何のため?』『生きるとは?』『死んだらどうなるの?』など、そういったことを一度くらいは考えたことがあるかと思います。
なぜ生きているのか、生きるとはどういったことなのか、私は親鸞会の人と知り合ってから、そういったいろいろなことを教えていただく機会に恵まれました。

その中でも因果の道理・因果応報という教えはすごく衝撃的でした。今の時勢、善人がしいたげられ、悪人がのさばっている事が多いですよね。何が善くて何が悪いのかなんてわからなくなってきていますが、悪いことをした人への報いというのは必ず現れるというのが
因果の道理、因果応報ということです。仏さまの眼から見られれば、善い行いをすれば善い結果がくるのは当たり前であり・・・悪い行いをすれば、悪い結果を受けるのも当たり前なのです。

良い行いをしていれば心が変わります。たとえ生活は豊かではなくても今の瞬間を『ありがたい』と思いながら生きることができるのです。お釈迦様の説かれます『因果応報』とは実践をもって本当の意味がしらされるのだと少しずつですがわかってきました。

さて、南無阿弥陀仏の話に戻りますが、『大無量寿経(佛説無量寿経)』には、この世で阿弥陀仏に救われて、『南無阿弥陀仏』とお礼の念仏を称える身になれば、いつ死んでも阿弥陀仏の浄土へ往って、阿弥陀仏と同じ仏として生まれることができると説かれています。

それはなぜかというと、阿弥陀仏が48の誓願『四十八願』を建立し、その中でも特に18番目の願である本願にそのようにして見せると誓われたのだそうです。

南無阿弥陀仏について書いていますが、以前は、言葉だけ知っていて、南無阿弥陀仏がこんなにも深い言葉だとは夢にも思いませんでした。
学んだことを今後も書いていきたいと思います。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
6月
23

南無阿弥陀仏・信心

みどり | 南無阿弥陀仏とは, 南無阿弥陀仏・雑談

『南無阿弥陀仏』とえば念仏を思い出す人が多いと思います。
でも念仏という言葉は有名ですが、念仏ってなんなのでしょう?
南無阿弥陀仏と一度でも称えたら極楽へいけるなどと耳にしたことがありますが、
本当なのでしょうか?

親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人は御文章に
分かりやすく教えています。

「名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり」(一帖十五通)

「ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず」
(三帖三通)

「まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり」
(三帖五通)

このような証文は、まだまだたくさんあります。
「ただ念仏さえ称えていれば助かる」というのは、間違いということがよく分かられると思います。
また後で詳しく書きたいと思いますが、念仏は阿弥陀仏に救われたお礼の言葉なのです。

親鸞会の人と友だちになってから、南無阿弥陀仏について考えるようになってきました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と仏壇の前で称えていて、地獄極楽について語るおばあちゃんの傍で育ってきた私は、南無阿弥陀仏なんて言葉が到底理解できないような頃から聞いていたので、何の違和感もなく聞き入れていました。今となってようやくその意味が少しずつわかり、おばあちゃんは私にこう言ったことを伝えたかったのかな?という気がします。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
5月
30

南無阿弥陀仏と法話

みどり | 南無阿弥陀仏・雑談

親鸞会に縁があり、南無阿弥陀仏について書いていますが、南無阿弥陀仏の御名号を本尊にしている親鸞会の法話に参詣しました。
法話というのは、仏法に関する話のことで、せめて法事の時だけでも法話を聞く機会があるとよいですね。

本来、法事というのは、忙しい忙しいと働く私たちが、せめて親の命日だけでも、仕事の手を休めて、肉親の死を思いおこして無常を観じつつ、経典に説かれている、釈尊の教えに耳を傾けようとする日なんですね。
ですから本来の法事には必ず、説法が伴わねばならないのです。
なので、読経、食事、飲酒、そして世間話で法事が終わってしまうのでは、要である説法が抜けた法事になってしまうのですね。

さて、最初に書きましたように南無阿弥陀仏の心について話がなされる法話を聴きに
いったのですが、その中で、水よく石をうがつ【雨だれの説法】について聞かせて
もらったので、ここで紹介したいと思います。

昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行をやっていたのですが、3年たっても一向に魂の解決の目処がつかなかったそうです。そこで、『オレは駄目な人間なのかも知れない』、と先生においとまを願い出たそうです。師の僧は、真面目な明詮だけに、残念に思ったそうですが、余りにも決意が固いので、慰留をあきらめそれを許したのだとか。

ですがやはり長いこと苦楽を共にしてきた師や法友と別れるのは辛く、明詮は泣きながら寺を出た・・・。その時、にわかに大雨が降ってきたので、止むなく山門の下に腰をおろし、雨が上がるのを待っていたのだそうです。その時、何気なく山門の屋根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気づく。

『こんな堅い石に、どうしてこんな穴があいたのだろうか。』・・・それはまぎれもなく雨滴の仕業ではないかと。あのやわらかい水滴が、こんな堅い石に穴を!何という驚くべき事実であろう。

そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にすらも恥ずべき横着者だ。仏法の重さを全然わかっていなかった。後生の一大事を軽くみていたのだ。例え水のように弱い心しかない自分でも、根気よく求めていけば、必ず魂の解決ができるに違いない・・・。奮然とその場を立った明詮は水からうけた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進し、後に音羽の明詮といわれる大徳になったのだそうです。何事にも、真剣に続けるということ程、大切なことはないのだと思いました。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
5月
13

南無阿弥陀仏・六字の名号

みどり | 南無阿弥陀仏とは

南無阿弥陀仏について、お釈迦さまはこう教えておられます。

【十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう】

『大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほど沢山の仏方が、異口同音に阿弥陀仏の作られた「南無阿弥陀仏」の名号の、想像できない大功徳を褒め称えておられるのだ』

すでに阿弥陀仏は『南無阿弥陀仏』を完成させていることがわかります。
なんといっても、どこかの誰かが言ったことではなく、お釈迦さまのお言葉ですからね。親鸞聖人は、弥陀が完成なされた、この『六字の名号』の大功徳を、『功徳の大宝海』とか『本願の大智海』とも『正信偈』に讃嘆され、蓮如上人は平易に、こう詳解されています。

【「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大になること、更にその極まりなきものなり。(御文章)】
『「南無阿弥陀仏」といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとはだれも思えないだろう。だが、この六字の中には私達が最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである』と書かれているのです。

これは前回にも紹介した部分ですが、南無阿弥陀仏というのは本当に大宇宙の諸仏が絶讃する名号ですよね。

南無阿弥陀仏は全ての人を絶対の幸福にする力があります。
人はなぜ生きるのか、何の為に生きているのか、なぜ苦しくとも生きていかねばならないのか、南無阿弥陀仏を頂くとその答えがハッキリするのです。

さて、南無阿弥陀仏とは少し話が変わりますが「和顔愛語」という仏教の言葉を知っていますか?、私はこの和顔愛語という言葉が大好きです。笑顔でいることは人を幸せにし、自分の幸せにもつながるという意味だと私は思っています。笑顔は見返りを求めてするものではないですよね。自分の笑顔で人を幸せにする・・・こんな素敵なことはないと思います。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
4月
14

南無阿弥陀仏という名号

みどり | 南無阿弥陀仏とは

南無阿弥陀仏とはなにか?
蓮如上人は『御文章』に分かりやすく教示されています。

『「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり』(御文章)

【南無阿弥陀仏】の名号はたった六つの文字だから、その南無阿弥陀仏という言葉にそんなに凄い力があるとは誰も思えないでしょう。
しかしこの南無阿弥陀仏という六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸福にする絶大な働きがあり、その広大さは、上をみれば果てしなく、底をみれば深さがしれない、まさに天の際限のないようなものである、と懇切丁寧にかかれています。

親鸞聖人も「功徳の大宝海」と、南無阿弥陀仏は宝の海のようなものだと正信偈に言われていますね。

大変な功徳が南無阿弥陀仏の六字にはあるのですが、猫に小判、ブタに真珠といわれるように、我々凡夫(人間)に、南無阿弥陀仏の値を知る智恵が無いので、その凄さが分からないのですね。

お釈迦さま、親鸞聖人、蓮如上人が絶讃する【南無阿弥陀仏】。それには、一体どんな力があるのでしょう。それは、全人類の苦悩の根元である無明の闇(後生暗い心)を一念でぶち破って、絶対の幸福に救う、破闇満願の働きであり、それは不可称不可説不可思議の大功徳なのだと教えられています。

南無阿弥陀仏の意味、南無阿弥陀仏の尊さを知ると、なんだか元気がわいてきます。
生きがいです。

Leave a comment!コメントは受け付けていません。
« Previous Entries --
  • カテゴリー

    • 南無阿弥陀仏とは
    • 南無阿弥陀仏・正信偈
    • 南無阿弥陀仏・親鸞聖人
    • 南無阿弥陀仏・雑談
    • 未分類
  • リンク

    • あなたの生きがいは何ですか?
    • あなたは地獄極楽を信じますか?
    • なぜ法話を聞く必要があるのでしょうか?
    • ブログで最新情報!親鸞会
    • 名著「なぜ生きる」を読む
    • 和顔愛語は大切なこと
    • 因果応報とは?
    • 最新情報ゲット!親鸞会サイト
    • 最新情報チェック!親鸞会ブログ
    • 生きるとはどういうこと?
  • メタ情報

    • ログイン
    • 投稿の RSS
    • コメントの RSS
    • WordPress.org

Copyright © 南無阿弥陀仏について学ぼう All Rights Reserved.